イチローのメッセージ

誰だか忘れたけど「記録より記憶に残りたい」と言ったプロ野球選手がいた。うなずける部分もあるが、もう終わりかけの大脳時代の考え方である。大脳の時代というのは何か予め定められた目標を目指す時代だったのだ。言ってみればそれが近代化ということである。大脳時代の野球のヒーローは王と長嶋で、王は記録を目指し、長嶋は記憶を目指した。そして、「記録より記憶に残りたい」というのは「王より長嶋になりたい」ということである。

長嶋は三振する時にヘルメットがうまく飛ぶように練習したとか、簡単な打球を難しく見えるように捕ったと言う。それは、観客を楽しませるためだ。そうやって人々の記憶に残ることを目指したわけだ。生まれつき阪神ファンの僕も長嶋の活躍は何となく許せたものだ。一方の王のプレーにはそのような遊びはなかった。王のホームランは脇目もふらずに最短距離を通ってスタンドに届いた。

王は記録を残し、長嶋は記憶を残した。それは彼らが目指した通りの結果なのだろう。目指したからといって誰にでもできることではない。だから、彼らはあの時代のヒーローとなった。大脳の時代は記録の時代で、それに対するアンチが記憶だ。でも、どちらも目に見えるものを残そうとした点では同じである。長嶋は右脳の人だとよく言われるが、右脳も大脳だ。大脳は考えた通りの目に見える結果を欲しがるのだ。もちろん、彼らはスポーツ選手である以上小脳を鍛えたヒーローなのだが、目に見える結果というのは小脳が求めるものではない。

目に見えるものを追求しないのがこれからのヒーローである。それがイチローだ。イチローは王のようにひたすら記録を目指しているわけではなく、長嶋のように他人の記憶に残るために簡単なことを華麗にやって見せるわけでもない。イチローは次々と大記録を作り、独特のフォームで「難しいことを簡単そうに」やってのける。当然、我々の記憶にも残る。しかし、それはあくまでも結果であって彼の目的ではない。イチローは200本安打の記録を意識していた時の自分は好きではないと語っている。では、何を目指しているのか? イチローが追求するのは「自分自身のやりたいこと」だ。

イチローは新人の頃、監督の意に反してフォームを修正しなかったため2軍に落とされたが、そこで監督交代を待ちながらいわゆる振り子打法を追求した。イチローのフォームは型破りで、そのせいで修正させられそうにもなったわけだが、今となっては圧倒的な記録を作っている以上誰も反論できない。つまり、新しい型を発明したのだと言える。それだけではなく「型にはまる必要はないんだ」ということも証明してしまった。「彼は天才だったから型にはまる必要はなかったが、それは誰にでもあてはまることではない」と考えることもできる。しかし、それは結果論である。鈴木一朗選手は仰木監督が「イチロー」と名付けるまではこれほどの天才だとは思われていなかった。彼は天才だから型にはまらないようにしたのではなく、型にはまらないようにしたからこそ才能が開花したのだ。

イチロー本人も彼を育てたお父さんも自発性の重要さを言う。しかし、教育において自発性を大事にするというのは簡単そうで大変なことである。何かを教えるというのは「自分の考えに従わせること」に近いが、自発性とは「他人の考えに従わないこと」だ。つまり、親や教師の言うことを聞かないのが自発性である。自発性というのは本質的に伝達不可能なメッセージなのだ。したがって、自発性を大事にする教育は一方的に何かを教えるのではなく「何かを一緒に探す」とでもいうような形になるだろう。

イチローはテレビのCMで「絵でも音楽でも、あなたの好きなことをできるだけ長く続けて下さい」と言っていた。イチローが次々と生み出す前人未到の記録は「自分の好きなことを続けていれば未知の可能性が開けるんだよ」というメッセージである。何かを長く続けるとどうなるかというと、身体で覚えて無意識にできるようになる。「身体で覚える」と言う時の身体とは小脳である。

イチローは「やるべきことを続けろ」とは言っていない。やるべきことというのは既に決まっていて、そこには未知の可能性は開けないからだ。また、やるべきことは他人に教わることもできるが、自分の好きなことは誰かに教わることはできない。未知の可能性への通路は自分の主観の中にあって身体性つまり小脳に通じているのだ。そういうわけで僕もイチローに賛成である。