宇多田ヒカルは分かってる

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宇多田ヒカルはよい。彼女は今のところテレビには出ないしライブもあまりやらないのだが、その理由は普通の高校生の女の子が土日だけでプロのミュージシャンをやるためだ、というようなことを自分のウェブサイトで書いていた。そういうことをやるためには集中力がいるわけだが、「集中するってことと力を入れて踏ん張っちゃうことは違うと思う」とのことである。僕が35才にして考えた理屈と同じだ。16才でそれをわかって明確に表現できるというのはスゴイ。しかもこの言い方も彼女の歌と同じように力んでいないので、本当にわかってるんだなと思わせるものがある。宇多田ヒカルの母親の藤圭子は演歌のスターだったが(週刊誌の記事によると)「演歌は食いぶち、やりたいことはロック」と言っていたそうだ。そんなことを言うということは、かなりの葛藤があったはずだ。葛藤を抱えながらやりたいことを明確に持ち続けた母親にしてこの子あり、という気がする。

村上春樹の大昔のエッセイ「村上朝日堂」に「僕の出会った有名人、藤圭子さん」という文章がある。村上春樹が学生時代にアルバイトをしていたレコード屋に、既にスーパースターだった小柄な藤圭子さんが化粧気もなくひとりで現れ、すまなさそうにニコッと笑って「あの、売れてます?」とたずねたという。村上春樹は、それ以来藤圭子という人のことをとても感じの良い人だと思っているが、この人は自分が有名人であることに一生なじめないんじゃないかという気がする、と書いている。有名であるということは他人の期待を背負わされるということでもあり、自分のやりたいことと他人の期待というのは調整が難しいのだろうと思う。

有名人が期待されることは「非日常的な存在である」というようなことだ。我々の日常というのは概ね地味でナサケナイものだから、有名人には非日常を期待してしまったりする。あるいは、自分が有名人になって非日常的な世界に生きたいと思う人もいる。我々の日常が地味でナサケナイのは身の回りの雑事に明け暮れるからだ。身の回りの雑事は身体というものがあるために生じる。身体が無ければ宙に浮かんで好きなことを考えていればいいのだが、身体というものがあるからそうはいかない。しかし、やりたいことというものもその身体から生じてくるのだから、やりたいことを抱えているというのは地味でナサケナイ部分を抱えているというのに等しい。有名人として非日常性に対する期待に応えようとすると、地味でナサケナイ部分を抑え込むことになる。それは、自分のやりたいことの源が分かっている人にとってはなじめないことなのである。

宇多田ヒカルは、「私、芸能人。あなたたち、ファン。」みたいな関係にはどーも一生なじめそうにない、とも書いている。村上春樹が藤圭子に感じたこととほぼ同じだ。芸能人とファンの関係とは非日常性における関係である。しかし、まともな人間関係には地味でナサケナイ日常が含まれる。彼女にはそれがちゃんとわかっているのだ。

1999.4.6