心はどこにあるか

何かが「ある」というのは、見たり聞いたり触ったりできるということだ。つまり、感覚器官を通じて存在を感じ取ることができるものは「ある」し、それができないとしたら「ない」。我々は心を見たり聞いたり触ったりすることはできないから、そういう意味では心は存在しないことになる。しかし、我々の中には心というようなものがあるような気がする。何かが「あるような気がする」のは、自分の意識が何かの影響を受けているということである。自分の中にあって意識に影響を与えるものとは何だろうか?

何かがあるとしてもないとしても、それは「考えている意識的な自分」とは違う何かだ。「我々の身体の中にあって意識的な自分とは違うもの」が心だということになる。我々の身体の中には非意識的な部分がたくさんある。自分の身体は感覚器官を通じて外側から見たり触ったりすることができるが、そうじゃなくて内側から感じることもできる。その感じは何となく気分のようなものとして我々の意識に影響を与える。それが心というようなものの感じである。つまり、ココロとは「内側から感じる自分のカラダ」のことなのだ。

心は意識的な自分とは違う。心とは非意識的な自分である。つまり、意識にとって心は異質の存在だ。反対に、意識も心にとって異質の存在である。我々の中には意識と心という異質なものが同時に存在しているのだ。自分の中に異質なものが同時に存在するとややこしい。そのややこしさに耐えられない場合は、どちらか一方だけが自分だということにしてしまったりする。しかし、そうするとややこしくなくなるかわりに、自分の中にあるものを否定し続けなくてはならない。それはそれでシンドイことである。

自分の中に異質なものが同時に存在して、それを否定しないとしたら、我々はあっちに行ったりこっちに行ったり右往左往しなくてはならない。それはまた別の意味でシンドイことだが、うまくいけば何も否定しなくていいのだから気分はよくなるはずだ。右往左往を続けていると、右往左往することにも慣れる。右往左往することに慣れるとリズムが生まれる。異質なものを統合することによってリズムが生まれるのだ。右往左往しないために異質なものを排除し続けようとすると、常に緊張していなくてはならないし、それがうまくいったとしても単調だ。

心は見たり聞いたり触ったりすることはできないが、心の存在は行動のリズムによって表される。リズムがあると心があるように感じられるのである。だから、リズムを形容するのには「ゆったりした、激しい、繊細な、淡々とした、固い」などのように「心の状態」を表現するのと同じ言葉が使われる。自分の心は自分の行動のリズムによって表され、他人の心は他人の行動のリズムによって感じ取ることができるのだ。

 → 自分の心をつかむ方法