他人と違う自分

他人と違うというのは孤独である。自分と違う価値観を持った人々の中にいると「集団の中にいるのに孤独」ということが起きる。そういう状態だと、周りの人と違う価値観を持っていることがバレたら責められるような気がして不安だ。しかし、周りの人々も実はそれぞれ違った価値観を持っているのかも知れない。もしそうだとしたら、自分だけが違う価値観を持っているわけではないから、他人と違うことで特に責められたりはしないはずだ。

他人と違うことで孤独になるのは、周りの人がみんな同じような価値観を持っている場合である。多くの人が同じ一つの価値観を持っているとしたら、それは客観的な価値観である。多人数に対して一つの価値観しか無いのだから、その価値観には各自の事情は反映されない。身体的特徴も過去の経験も趣味嗜好の類いも、個性に関わるようなことは何もかも軽視される。つまり、一つの価値観というのは自分の個性を切り捨てないと保てないようなものなのだ。「他の人もみんな従っているから、自分も従わないと責められる」という不安がなければ、誰もそんな価値観に従わないだろう。

みんなの価値観がバラバラだったら、みんなが孤独になりそうな気がするが、実はそうではない。各自が他人と違うだけなら、孤独な状態は生まれない。その場合は、「他人と違ってもいいのだ」という価値観が共有されることになる。でも、そうなるためには「みんなの価値観がバラバラである」ということをハッキリさせる必要がある。そうしないと、本当はみんなの価値観がバラバラであるにもかかわらず、みんなが「自分以外は同じ一つの価値観を持っているんじゃないか」とビクビクしている状態が続くかもしれない。

一人ひとりが他人と違う自分を発見して、それを何らかの形で表現すれば、みんなの価値観がバラバラであることがハッキリする。他人と違う自分を発見するには、ひとりで何かをしなくてはならない。誰かと一緒にやると、どうしたってその人に影響されてしまうからだ。各自が孤独な時期を経ることによって、「みんなの価値観がバラバラなことがハッキリした状態」が実現する。表現というのはそのためにやるのだ。多くの人に自分と同じ価値観を共有させようとするのではなく、「お互いに全然違うけど、それでいいのだ」ということを表現すると、逆に、どうしようもなく同じであることがハッキリするだろう。