個性とはバランスのとり方である

すごく判りやすい特徴がある人は「個性的だ」と言われる。個性というのはその人の持つ性質のはずだが、判りやすいかどうかは周りの人々との比較の問題である。たとえば、地味な服装の集団の中で派手な格好をすると判りやすくて個性的に見えるが、派手な格好の集団の中では派手な格好をしてもあまり目立たない。派手な集団の中で「判りやすい」という意味での個性を出そうとすると刺激の量を競うことになる。しかし、そういう競争に参加することで、「派手さ」に価値を置く集団の中に埋もれてしまう。つまり、個性的であることと個性は関係がないのである。

たとえば、歌を歌うとする。個性的に歌おうとするとどうしても力んでしまい、力んだ感じというところが誰かに似てしまう。ところが、できるだけ個性を出さずに歌おうとすると、かえって個性が出る。どれだけ個性を出さないようにしても、その人が全体として作り出す雰囲気というのは消せないからである。個性というのはその人が持つ様々な要素の全体としてのバランスのことなのである。個性的であろうとすると一部の要素を強調することになり、全体のバランスという意味の個性が発揮できないのだ。

我々は現実との間にバランスを保って暮らしているが、そのバランスの取り方は人によって違う。判りやすい特徴のある人というのは、そのバランスを崩しているのである。そういう人は人間を構成する様々な要素のうち一部の性質が際だっていて判りやすいが、その人を特徴づける要素が偏っているので「ありがちなパターン」に陥りがちである。何か既成のパターンにはまっているから判りやすいのだとも言える。そういう「ありがちなパターン」ではないものが個性であり、個性とは様々な要素のバランスである。バランスというのは「何となく」としか感じられないものだから、実は、個性というのは判りにくいものなのである。

個性というのは複雑なものだから判りにくいが、ただの複雑とは違うのはバランスを保っているという点である。バランスを保っていることは、本人が様々な要素の全体を「判らないなりに」把握していることを示している。個性の発達とは、個性的であろうとして自分の中の一部の要素を尖らせることではなく、様々な要素のバランスをとれるようになることである。他人から見て判るのは「なんとなくバランスがとれてるなあ」ということぐらいだ。