雲の形

毎日毎日僕らは正解のない問題を突き付けられている。それは、自分が何をやりたいのかを問われているということでもある。しかし、他人から突き付けられる問題は解答できる範囲が狭いので、「自分はこれをやりたい」という形で答えるのが難しい。だから、自分でも何がやりたいのかが判らなくなる。

自分がどうしたいのかを考えるには、本当に自由に答えられる問題を自分で設定する必要がある。例えば、「雲の形が何に見えるか」というような問題である。この問題に対する答えは雲の形によって決まるように思えるが、その時の気分によっても変わる。なぜそう見えるのかと訊かれても、「何となく」としか答えられない。雲の形は我々の中にある「何となく」が具現化されたものなのだ。そして、自分のやりたいことや個性というのも「何となく」の具現化である。

正解のある世界で個性を発揮するのは難しい。テストで百点満点の答案というのはどれも同じである。かといって、ただ間違っているだけの答案が個性的というわけでもないし、白紙の答案で個性を表すこともできない。敢えてやるとしたら、問題とは無関係な絵や文章でも書くしかない。つまり、個性というのは正解とは関係のないところでしか発揮されないのだ。

正解のある問題では個性が発揮されないのだから、個性を評価することもできない。個性を評価するには「正解のない問題」というものが必要である。正解のない問題の答案には何を書けばいいのだろうか。正解がないとは言っても問題はある。問題として何か「お題」が与えられるわけである。その問題をめぐって、自分が書きたいことを書くしかない。そこに個性が現れる。

正解のない問題の答案はどうやって評価すればいいのだろうか。正解がないと、簡単にマルやバツを付けることができない。しかし、別に誰かが採点しなくても、みんながお互いにどの答案が気に入ったかを言い合えばいいのだ。そうすると、気に入られるのが目的になりそうだが、気に入られようとするかどうかも個性の内である。我々が深く気に入るものは、現実に向き合って個性を発揮している人の表現である。

現実を生きていく上での問題には正解がない。正解がないからこそ、多様な個性が現れる。現実の日常生活というのは、正解のない世界で右往左往することである。だから、現実の世界で生きているというだけで、我々は個性を発揮していることになる。一人の人間が現実の世界に向き合っている度合いと、その人自身の個性の発揮度合いは一致するだろう。正解とは、要するに「他人が言ったこと」である。正解に基づいて生活すれば、その分だけ個性は発揮されないことになる。