カジュアルな格好について

ビートルズのアルバム「アビー ロード」のジャケットで、ジョンは白いスーツにスニーカーを履いている(ポールはグレーのスーツに裸足である)。村上春樹は新人賞をとった時、オリーブグリーンのコットンスーツを「洗濯機で洗ってくしゃくしゃにし、古いテニスシューズを履いて授賞式に出た」という(ちなみに受賞作「風の歌を聴け」の中には、主人公がオリーブグリーンのスーツを着る場面がある)。

彼らがスニーカーで表現したのは「カジュアル」だ。カジュアルを表現するにはジーンズにスニーカーを履いておけば簡単で判りやすいが、スーツとスニーカーの対比を見せればよりインパクトがある。一方、スーツが表すのは「フォーマル」である。casualを辞書で引くと「形式ばらない、気楽な」であり、formalは「形式ばった」だからフォーマルは気楽じゃないのだ。形式というのは大脳が生み出すもので、人工的なものだ。人工的なものほど壊れやすいから、壊れないようにいつも気を付けていなくてはならない。だからフォーマルだと気楽になれない。カジュアルは気楽であり、それは小脳と関係がある。

カジュアル以前にフォーマルに対抗するものとして「ヒッピー」や「サイケデリック」があった。ヒッピーやサイケは既成のフォーマルに対抗する新しいものではあったが、ひとつの形式であることには変わりがなかった。「こういう格好をすればヒッピー(あるいはサイケ)である」というようなものだった。つまり、それらは反フォーマルとしての人間を外から規定するものであり、新しいフォーマルでしかなかったのだ。規定からはずれないように気を付けていなければ維持できないような価値観は気楽ではない。

そういうわけで、カジュアルというのは「反フォーマル」のことではない。ただ気楽なだけである。それに対して、フォーマルの言い分は「気楽なだけで生きていけると思ってるのか!」だろう。しかし、フォーマルな形式というのは人間が「生きていく」ことにおいて理不尽な面も多い。例えば、スーツは窮屈で動きにくいし暑苦しいし扱いにくいものである。阪神大震災の時、みんなカジュアルな格好で仕事にだって出かけたように、形式が壊れた時には気楽な格好をしていた方が「生きていく」ことの妨げにならなくていいくらいなのだ。

今はどうやら価値崩壊の時代だが、壊れていっているのは人工的な形式である。つまり「フォーマル」は衰退しつつある。一方、もともと気楽なものは壊れにくい。カジュアルが気楽で壊れにくいのは外からの規定に縛られないからである。気楽さというのは自発的なものなのである。そして、自発性というのは小脳が生み出すのだ。