怒りについて

我々が怒るのは、ものごとが思いどおりにいかないときです。何もかも思ったとおりだとかえって腹が立つこともありますが、その場合は意外な結果を期待していたのにそれが得られないから怒るのだと考えることができます。要するに自分にとって不都合なことに出会うと我々は怒るわけです。不都合なことも現実ですから、我々が怒るのは現実が自分の思いに反するものであった時です。現実と自分の思いが食い違ったときに、自分の思いに固執して現実を否認しようとする心の動きが怒りではないでしょうか。逆に現実を素直に受け入れることができれば怒りは生じないと考えられます。

自分の思いというのは自分の世界観に基く希望的観測のようなものです。希望的観測がはずれたときは、自分の世界観と現実とのズレを発見したことになります。現実とズレた世界観なら修正すればよいのですが、それは結構面倒な作業です。なぜなら、我々はその世界観に従って生活しており、世界観を修正するということは生活を変えるということだからです。我々は文明社会において色々なモノや規則に頼って生活しているため、生活を変えるにはモノや規則も変えなくてはなりません。それに、世界観を変えるということは自分が未知の世界に入っていくのと同じことです。未知の世界では経験が通用せず、何が起きるか分からないので不安です。そういうことがイヤなので、我々は不都合な現実に出会ったとき、自分の世界観よりも現実の方を修正したくなるわけです。

ところが、現実というのは複雑かつ巨大であり、我々にできることは限られているので、そう都合良く修正できるものではありません。したがって、我々は渋々世界観を修正し、未知の世界に直面する不安を味わうことになります。世界観を修正する面倒や不安を抱え込むことになったのは、不都合なことが起きたせいなので、我々はその不都合に対して腹を立てます。更に、誰かの行動の結果として不都合なことが起きたのだと思えば、その誰かに対して怒ることにもなります。その誰かというのは他人である場合も自分である場合もありますが、どちらにしても、不都合を起こさないためにはその人の行動をもっと制御する必要があると考えてしまいます。

しかし、「もっと行動を制御する」というのは現実の修正であって世界観の修正ではありません。それに、行動というのは本質的に思いどおりにいかないものです。したがって、不都合を起こさないための努力をするよりも、不都合が起きることも含んだ世界観(=生活)に修正する必要があるのではないでしょうか。つまり、多少の不都合が起きても構わないという精神的、時間的な余裕が必要だということです。怒りが生じるのは自分の認めたくない現実に出会った徴であり、不都合に対する余裕の無さへの警告であるともいえます。