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アテネ五輪期間中連載コラム
「63歳の監督は『みずき』とつぶやき続けた」 |
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アテネ五輪 第12日 |
ゴールとなったパナシナイコ競技場の席に座り、大画面で野口みずきを見守る、グローバリー・藤田信之監督の額からは、すでに1時間近く、拭くことさえ忘れて、大粒の汗が流れ落ちている。2位と12秒差で40キロ地点を通過してからは、みずき、みずき、と名前だけを、祈るようにつぶやいていた。 63歳の藤田にとって、真木 和(当時ワコール、現姓・山岡)と12位だったアトランタ以来、8年ぶりの五輪となった。勧誘した自ら「才能ならば、ビリから2番目」と笑う、身長150センチと小柄だが大きな走りと心を持ったまな弟子のゴールの瞬間、涙も言葉もなく、ただ立ち尽くしていた。 中距離で京都の高校No.1になり、弱冠19歳でユニチカの陸上部監督に就任。当時はまだ社業を同格にこなさねばならず、人事部に勤務し1,200人ものリストラの通告をしたこともある。そのかたわらで、圧縮機の取扱、衛生管理、危険物、ボイラーと、社に関連する様々な国家資格を独学で取得し、定年も視野に入ったころ、部下の評価をめぐって上司と衝突し、サラリーマン生活に別れを告げる。 「苦労の連続? いや、とんでもない。選手の顔を見て、走りを見て、伸びて行く様子を見る。これ以上の幸せは、ないと思うてます。もうのんびり年金暮らしをしてもいいころなんやけど、周りに迷惑かけんうちは、現場にこだわりたいですわ」 声は大きく、冗談ばかり言う。だが言わずとも、それは仮の姿。 『みずき、アテネへGO!』 “GO”で止めたのは、それが“GOAL”にも、“GOOD”にも、そしてもちろん……。 (東京中日スポーツ・2004.8.24より再録) |
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