アテネ五輪期間中連載コラム

「史上最強の主婦誕生」


アテネ五輪
第5日目
 遠くから、本当に遠くからみなさんにアテネまで来ていただいて……。
 ミセス・谷の声は少し震えている。黄金色のライティングに映えるアクロポリスと、きらめくアテネの町を見渡せるレストランは、15日晩、それまでの宴が嘘のように静まり返り、集まった20人もまた、下を向いて涙をこらえていた。挨拶する主賓の前には、豪華な花束ではなく、「史上最強の主婦誕生!」と書かれた色紙が飾られていた。
 谷 亮子(トヨタ自動車)は続けた。
「応援してもらうこと、期待してもらうこと、これがどれほど自分の背中を強く押してくれるのか、それが身にしみた大会でした」とようやく言い終え、両親、83歳の祖母、彼女が15歳で初めて福岡国際を制したときからハッピを着て、メガホンを振り、世界中で共に涙した親しい応援団に頭を下げた。2日で20件の取材を終え、この晩、帰国前夜の応援団に挨拶するため、選手村から金メダルと共に出張してきたのである。そこへニュースが飛び込む。「北島選手が金メダルだって!」。主賓は飛び上がって拍手をし、宴は再び歓声に包まれた。

 じつは谷もまた、大事な人の背中をグイと、強く押していたのである。
 15日朝、選手村で北島康介(東京SC)と偶然にも会った。勝負に向かう男に一瞬、遠慮したが、先に声をかけてくれたのは北島さんでした、だから余裕があったんです、と同じく勝負師は見抜く。祝福してくれ、「谷さん、僕に勢いを送ってください」と言った21歳の真顔に、笑顔で返したという。
「任せてください。私が後ろからグングンと背中を押しますから。祈ってますから」。
 2人の握手は、新たな風を生んだ。

 野村忠宏(ミキハウス)、谷の金メダルに酔いしれた晩、アテネにはこの時期特有の強い季節風が吹き始めた。街路樹を大きく揺らし、雲を運び、30度を超える強い陽射しに、心地よい涼を送り込む。北東からの季節風「メルテミ」を、選手たちは見事にとらえて上昇しているかのようだ。エーゲ海を駆け抜ける、力強くも、さわやかな風に乗って。

(東京中日スポーツ・2004.8.17より再録)

PREVIOUS
HOME