グリーン『自分のゴールは9秒76』

    11年前の『幻』


「ここは、頭とか神経のツボです」
「あ、日ごろかなり使っているんで凝ってます?」
 先生は笑って首を振ると、足のツボを押し続けていた。
 サッカー日本五輪代表は、香港ラウンドを全勝でターンし、日本ラウンドを迎える。先週は常に湿度が70%を超える香港で取材をし、本場のマッサージにも通った。
 うたた寝していると、テレビの音が急に高くなり、先生の手がふと止まる。
 アテネで行われた陸上の国際競技会男子100メートルで、米国のモーリス・グリーン(24歳)が、9秒79と、従来の記録9秒84を大幅に更新する世界新記録をマークした。テレビはその映像を流しながら、まるで競馬中継のような速度のナレーションを中国語でまくし立てる。噴き出してしまった。
 グリーンが100メートルを駆け抜けて行くスピード感は、テレビの中でさえこれまでと明らかに違う。
 人類が、初めて9秒80の壁を破った瞬間、その圧倒的なスピード感に、マッサージ室に歓声がわいた。
 それにしても79である。
 正確には、人類が80の壁を破ったことは、ある。
 1988年、ソウル五輪の決勝で、ベン・ジョンソン(カナダ)は当時の世界記録9秒93から9秒79をたたき出した。取材でソウルに行き、競技場で実際にその記録を見た時には、鳥肌さえ立った。何しろ同走したカール・ルイス(米国)さえ、ぼうぜんと立ち尽くしていたのである。
「速く走ることだけに、人生と時間と、私のエネルギーすべてをかけてきたんだ。本当にすべてを」
 ジョンソンが会見でそうまくし立てたのを、今も覚えている。しかし2日後、記録は、ジョンソンの薬物使用が判明したことで抹消された。貧困のどん底から走り、そこから加速すること「だけで」抜け出してきたジャマイカ移民が樹立した世界記録は、48時間にも満たない運命で消えた。
 ジョンソンへの同情はわかなかったが、なぜか、紛れもなく人間が走ったあの9秒79という記録に対して、同情したくなった。
「今見た記録は偽物だった。なかったことにする」
 記者として初めて見た世界新記録が「嘘」だと認定されたとき、私もまた、心のどこかに「ささくれ」を残したような気がしていた。
 グリーンとは、2年前の世界陸上、やはり同じアテネで初めて世界チャンピオンになったときにインタビューをしたことがある。
 シンプルで、その分、強い哲学を持っている選手だ。
「僕は子供のころから速いものにあこがれたんだ。速く走る快感は、人には説明できない。100メートルの美しさは、スピードに宿ると僕は思う。だから美しいフォームをつくり上げたいんだ」
 くしくも9秒79で時計が止まったことは、いまだあの「幻」がトラック内をさまよっているかのようでもある。しかし、グリーンは2年前のアテネですでに「自分のゴールは9秒76である」と言った。
 人類が、肉体の壁と同時に、11年前の幻を追い払う瞬間を見たい。
 8月は、スペイン・セビリアでの世界選手権に行くことにする。

(東京新聞・'99.6.22朝刊より再録)

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