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旧友との再会

2006.04.04. 掲載
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小学4年庄野学級のクラスメートについては、このサイトに 小学4年庄野学級 仔牛の恋のクラス会 現役最後のクラス会 として3度掲載している。そのクラスメートの一人で、消息不明のために連絡の取れなかった久山君が、長く米国で暮らしていて、先月末帰国し、10日ばかり神戸の六甲に滞在しているとのメールを本人からもらった。そこで一昨日(4月2日)に阪神間に住んでいる、磯部、山下、私の3名が阪急六甲駅で待ち合わせて、彼と歓談した。そのあらましを記録に残しておくことにする。

●ハヤトチリは我が世代の特徴?
梅田から阪急電車に乗る。結婚するまでは専らこの電車を利用していたので懐かしい。30分足らずで六甲駅に到着したが、駅は様変わりしていて戸惑った。キョロキョロしていると、磯部、山下のご両人が手招きしている。久山君には3人とも49年間会っていないので、どう変わっているのか興味は津々だ。

前日午前11時ころ磯部君が久山君の予定を聞き、それから私たちに電話連絡をしてくれて、翌2日の12時半に待ち合わせると決めたようだが、久山君はその日のことと勘違いしたらしい。1時間以上待ちぼうけをして、お陰で本を3冊買ったそうだ。

●一瞬誰か分からず!
その久山君が現れた時、紺の上着で白のズボンと聞いていたので分かったが、それを知らなければ恐らく分からなかったのではなかろうか? 彼は山下、磯部両君はすぐ分かり、変わっていないと言ったが、私のことをしげしげと眺め、納得し難いようだった。「髪が白なったからかな?」と言っても肯かず、「黒めがねをかけているから?」にも答えず、「顔が大きなったから」と言われて、ガックリ! 確かに年をとるに連れて、顔が大きくなってくるのを気にしていたのだが、それをズバリ指摘されたので「大きな顔をしてごめん!」と謝った。

●長い海外生活
彼は関学を出てから、外資系の船会社に勤め、海外生活が長く、1ドル360円の頃から、アメリカやドイツで過ごしたようだ。ドルの話から、1ドル105円の時にドルを買い、115円の時に売れば、税金もかからず、利殖に良いということを教えてくれた。1ドルが100円を切るような事態は起こるはずがない。115円になるまで持っておけば良いという彼の話に説得力はあった。しかし、実行をする者はいないのではなかろうか?

●アメリカの医療事情
彼を除く3人は、かっては薬品メーカー勤務、病院事務職、医師となぜか元医療関係者なので、話題はアメリカの医療事情を聞くことから始まった。アメリカではお金が払えることが確認されるまでは、救急車で行こうが、痛くて泣き喚こうが、診察もしない。だから、盲腸(急性虫垂炎)でも手遅れになることがある。入院費が1日100万円にもなるから、早く退院しようとする。保険に入っていても、保険会社と病院との医療費の支払交渉が長引き、すべての決着がつくのに1年はかかるそうだ。その医療保険に入れない人が4000万人以上いるという話を聞いて、何という国なのだと思ってしまった。

このように医療費が非常に高い上に、ごく少数の優秀な者を除けば、医療従事者の質は日本よりかなり悪いので、航空運賃を負担したとしても、日本に帰って診療を受ける方が安上がりで、医療も確かであると言うのを聞いて、唖然となった。

面白かったのは入院してお金がなくなった時、開き直れる者は病院の電話を掛け続けたり利用できるものは全部利用して病院に居座ってしまうことがあるようで、入院させてしまったら追い出すことができないので病院は大変な損害を蒙るらしい。

●アメリカの車事情
医療の質の悪さは、自動車製造の場面でも同じで、設計や設備が良くても、末端で実際に組立に当っている者のレベルが低いから、欠陥品が多く出てくる。そこから話は飛んで、NASAのスペースシャトルやロケット製造でも現場で作業に従事する者のレベルが低いから、あのような爆発事故が起こるのだとまで極論を述べてくれた。

アメリカのガソリン代は原油価格に対応して毎日変動するという話にも驚いた。日本ではガソリン代に占める税金の割合が高いので、少々の原油価格の変動には影響されないのに対して、アメリカでは税金の占める割合が低く、原油価格がもろにガソリン代に響いてくるからのようだ。久山君は年に4万キロメートル走っていたそうだが、アメリカは自動車がなくては移動ができない国なので、ガソリンに多額の税金をかけることは不可能なのだろう。

●アメリカの石油資源
石油の話から、アメリカは石油原産国であるのに、なぜ原油価格の変動に過敏なのか、アメリカの石油は使い果てしまったのかという疑問をぶつけてみた。すると、アメリカには莫大な石油資源が残っている。アラスカなどは石油の宝庫らしい。しかし、自分の国の石油には手をつけず、最後まで自然のままで備蓄しておき、他の国の石油資源が枯渇して、始めて自分の国の石油を使おうとしているのだという。なるほど、アメリカは自分の国だけでやって行けるのだ。その正反対なのが日本で、食料でさえ自給自足は到底無理である。将来これで大丈夫なのだろうか?

●太平洋戦争でアメリカに負けて当然
私たちは戦争中は愛国少年だった。だから、この石油物語から、あの太平洋戦争で日本が戦ったアメリカという国のことに思いを馳せた。こんな資源の豊かな国と戦って勝てるわけがない、山本五十六が開戦に反対だったのはアメリカの国力を良く知っていたからだろうとか、戦争中でも貿易などで彼の国を良く知っている人は「あんな持てる国に勝てるわけがない」とヒソヒソ話していた、などと話は弾んだ。

●アメリカの食べ物
アメリカの食べ物の量が日本人には想像できぬほど大量であることは知っていたので驚かなかったが、生はまぐりの美味さは生牡蠣の比ではないと聞かされ、食指が動いた。ツルツルとコリコリ、たまらんだろうな!!

●9.11
2001年9月11日の世界貿易センター・ツインタワーにハイジャックされた旅客機が突入する映像を久山君の奥様はTVで偶然見て、見慣れた建物だと思って貿易センターの方を眺めていたら、2回目の旅客機突入を肉眼で見られたそうだ。それから1月頃まで、マンハッタンは煙と肉の焼ける匂いと熱気が絶えることがなかったという。

アメリカの高層建築物は最初から、爆破で上から下へ内部に向かって崩れ落ちるように作られているのだそうだ。だから、あの旅客機も残骸を留めず、建物も瞬く間に崩れ落ちたのだという。日本の建物では考えられない倒壊の仕方はそういうわけだったのだ。

●阪神淡路大震災
9.11から話は阪神淡路大震災に話は飛んだ。その時彼は偶然カーラジオで地震のニュースを知ったそうだ。はじめは東京で大地震発生だったのが、それが大阪になり、神戸に変わって行ったらしい。電話がつながらないとニュースでは言っているので、電話を片っ端からかけていったが全部つながったそうだ。国際線は回線が違い、同時利用数が少ないから繋がるのだろう。あの時公衆電話はつながったというのも同じ理由で、それがつながらなくなったのは、料金用のコインが容器一杯になって追加ができなくなったかららしい。

彼の実家は阪急六甲駅の近くにある。壊滅状態の家が多かった中で奇跡的に被害はわずかだったという。それは数年前にそれまでの3重の重い屋根を軽い屋根に変えたからだろうと言っていたが、確かに屋根の重みで倒壊した家をたくさん見てきた。

恩師の庄野先生のお宅はその近くあったが全壊し、垂水の別荘に移り住まれることになったし、山下、磯部両君の家も全壊した。庄野学級のクラス会出席者で、我が家全壊という人が多数いた。久山君はアメリカにいて心配だったであろうに、実家が無事で嬉しかっただろうと思った。

●ドイツのアウトバーン
その他にもいろいろアメリカの話を聞かせてもらったが、ドイツにもいたことがあるというので、そちらに話が飛んだ。ドイツにいる時もドイツ語は覚える気がなかったらしい。彼の周りのドイツ人は英語が話せるし、オフィスでの公用語は英語だったので、不自由しなかったそうだ。それは、日本の支社に来ても同じで、ビジネス関連の伝達は日本でもすべて英語で行なわれるという。

ドイツと言えば男の関心はアウトバーンである。アウトバーンには道路の継ぎ目がないそうだ。もしあれば、あの速度なら車はどこへ行くか分からない。速度無制限、上限なしだから時速200kmでビュンビュン飛ばしている。そのくらいになると車体が浮き上がるらしい。日本でリアスポイラーを装着している車をみると、何の役に立つのかと思っていたが、アウトバーンでは立派に用を足しているのを教えてもらった。ただ、アウトバーンにも2箇所だけ速度制限のある箇所が設けられていて、そこでは何台もの車が捕まっているのを目撃したという。

乗用車は速度無制限であるが、トラックは時速60kmと決められている。そのため、アウトバーンでは自動車事故が少ないそうだ。アメリカも日本もトラックは乗用車とほとんど同じ速度制限であり、大型自動車事故の大半がトラックによるものだから、ドイツの合理精神には感服する。

●クラス会の報告
アメリカ、ドイツの話が一段落したところで、今度は過去の庄野学級クラス会のことが話題になった。彼は来月にある古稀記念のクラス会に所用があって出席できないかもしれないというので、何とかそちらを断って出席してもろおうと、私たちはアトラクティブに、これまでのこと、クラスメートのことなどを話した。磯部君は彼のために作ってきた写真や諸々の記録をファイルにして手渡していた。

●クラスメートの消息
クラスメートの消息を磯部君は精力的に調べてくれているが、分からない人は本当に分からない。それが男に多いので、クラス会の出席者は女性の方が多くなる。分からないクラスメートについて、それぞれが思い出を語ると、いろいろな見方があって面白かった。

庄野学級ではないが、久山君が一番美人だったというMSと言う名前を聞いて、名前だけは知っているような気もするが、顔が全く浮かばない。磯部、山下両君も私と同じだった。小学4年から6年までの時期でも、異性に対する憧れはあり、それがそれぞれに違っているらしいことを知って楽しくなった。

●酒の飲めぬ者はいなかった
私たち3人は運良く酒が飲めないことはない体質で、2ヶ月前も酒を肴に5〜6時間しゃべり続けたのだが、久山君も同類人であることが分かり、ブラボーであった。12時半からS−DRYを肴に、上に書いたような話をとめどなくしゃべり続け、店を出たのが7時ころだったと思う。今度のクラス会に帰れなくても、来年には日本に引き上げてくる予定だと聞いて、その時にはまた4人で飲もうと言って別れた。

●49年の歳月を経た顔
私のアルバムに、この4人が写った写真がある。57年の正月に庄野先生のお宅を訪問した時に、先生のご主人が撮影して下さったものだ。先生とご子息、それに3人の女性のクラスメートが写っているが、女性はプライバシーの問題があり、カットしたものをここに表示しておく。その時から49年が過ぎた4人の顔をその下に並べてみるので、ご覧あれ。

1957年1月 庄野先生宅で

2006年4月 六甲苑で
磯部、野村、久山、山下

●あとがき
今回の記録は、庄野学級クラス会幹事の磯部君からの要望を受けて、私の記憶をまとめたものです。5月の古稀の会に久山君が欠席の場合は、この記録を出席者に配る予定です。


<2006.4.4.>

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