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中学卒後50年の感慨

2002.08.28. 掲載
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3年8組 野村 望   

鷹匠中学「卒業50年の集い」の案内をいただき、49年4月から52年3月までの中学生活を思い出してみた。外部のできごとでは新校舎への移転、朝鮮戦争の勃発とマッカーサー元帥の解任が印象に残っている。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の歌の文句を引用し、最後までカッコをつけてマッカーサーは去って行った。

個人的なできごとでは「声変わり」をまず思い出す。ボーイソプラノがオッサン声に変わり、体も大人になって行く頃の何とも言えない妙な気持。歌をしばらく歌えなかった代わりに、多くのジャンルの音楽をこの時期に聴いて楽しんだ。

当時絶えず心から離れることがなかった「淡い恋心」も懐かしい。私には遠くから眺める憧憬の3人がいた。ダンテの恋人の名前を借りた「ベアトリーチェ」、シラノ・ド・ベルジュラックから「ロクサーヌ」、青い山脈の「杉葉子」。それはまったくの片思い、実ることなどは思いもしないプラトニック・ラブであった。

そして次に来るのが「反抗期」。授業中先生に逆らい職員室に呼び出されたこともあったが謝らなかった。そして私はこの時から優等生であることを止めた。この頃一番影響を受けたのがヘルマン・ヘッセの「デミアン」である。

恩師でよく頭に浮かぶのが「鈴木義一」先生なので、なぜなのか不思議に思う。先生は数学担当なのに放課後教室に残って「ナポレオン・ボナパルト」の話をして下さるのだった。それが楽しみで、何度もお願いして嬉々として聞き入っていたのを思い出す。

先生はまたクラブ活動の文化部の「創作部」の顧問もされていた。なぜ数学の先生が「創作部」なのか良く分からないが、私たち部員は原稿用紙をもらったけれど、結局1枚も書くことはなく、今は亡き稲浦君などと大いに雑談をしていた記憶だけが残っている。

恩師ではもう一人「吉田久恵」先生が音大を卒業して赴任され、「吉村多恵子」先生のピアノ伴奏で、ヴェルディーのオペラ「椿姫」から「ああ、そは彼の人か」とフォスターの歌曲「夢路より」を歌われ、感動して聴いたことを思い出す。

小学校は修学旅行がなく中学の修学旅行が最初だったので無茶苦茶にはしゃいで過ごした。山路君が手廻しの蓄音機を持って来たので、SP盤の軍歌をかけて、それに合わせて皆で合唱をした。太田教頭が「人民の、人民のための、、、」というリンカーンの演説をよく話され、民主主義こそが善、軍国主義は悪とされていた時代だったから、これはかなり冒険だった。

私が生まれてから61歳までの61年間に聴いたり歌ってきた「歌と思い出」をまとめて、自分のホームページに掲載している。61年間で510曲になるが、中学時代の49年50年は7曲、51年は16曲である。「野村医院」で検索していただければ、どの検索エンジンでもヒットするはずなので、興味がおありの方はご訪問いただければ嬉しい。

思いがけず医師になってしまった。来年(03年)8月末で開業満30周年を終える。それまで、今しばらく診療を続けるつもりだ。寿命は70歳と考えているので、わずかしか時間は残っていない。もし70歳以上の命があれば、それはおまけの人生、あれば良し、無くて仕方なしの心境である。


<補足説明>
昭和24年(49年)4月に私は新制中学の第3回生として、神戸市立鷹匠中学に入学した。敗戦後4年足らずの何も無い、貧しい時代だった。旧第三神港商業学校の校舎を神戸外国語専門学校(現神戸外大)と共用していたが、翌年新校舎に移転した。52年の3月に8学級456名がここを卒業したが、それからもう50年が経過したことになる。

今年の秋に卒業50年の集いが神戸で開かれる。その時に配る文集に卒業生や当時の恩師の50年の感慨を綴った文章を載せるとの案内をもらった。A4版40文字37行、ワープロかパソコンで印刷したものという規定に苦笑しながら、中学時代の思い出をその規定通りに書いたのがこの短文である。

ついこの間まで「人生50年」と言われていたのに、それをはるかに超えて生きていることを思うと感無量となる。私たちほど激しい変動の時代を生きてきた世代は人類史上存在しないであろう。本当にいろいろなことを見たり経験してきた。そういう意味では「幸せな世代」だと言えるのかもしれない。


<2002.8.28.>

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