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古稀を生きる

2006.04.23. 掲載
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古稀の誕生日を思いのほか淡々として迎えた。人類の経験した最も長寿の時代に生きる運命のため、「人生七十古来稀」の齢を数えることができたのは幸せだった。自分の想定死亡時期を70歳として生きてきたので、これが人生最後の年となる。

「死期を想定して生きる」の中で、「したいことの60%くらいを果たすことができたと主観的には思えるので、なんとか最低限はクリアできた」と書いたが、それからあと、古稀の誕生日までにしてきたことを総合すると、自分では65%くらいを果たせたと思っている。

私は変わったところの多い人間だが、その一つが「自分で目標を作り、タイム・リミットを決め、それを守ることで問題を解決しようとする」生き方ではないかと思う。これまでタイムリミットを守らなかった記憶がない。その最後のタイムリミットが、古稀の誕生日に「開業医の小児科独習法」をウエブサイトに載せ、それをCD−Rの電子書籍に収め、ウエブサイトの記事を印刷して、自分と息子のための世界で2冊しかない印刷本を作ることだった。

開業して以来、小児科を標榜することをしなかったが、小児の診療はしてきた。現役を止め、開業医生活をふりかえって、開業して一番良かったと思うことが、この小児を診療できたということだったのにはいささか驚いた。しかし、考えてみるとそれは不思議ではなく、小児科の醍醐味を味わうことができて一般医冥利に尽きる思いがする。

その小児科を、私の好きな自学自習で習得した記録は、開業医生活の総括にふさわしいと思えて、これまた嬉しくなった。これが私の最後のタイムリミット作品になった幸せを思っている。

古稀を生きるこれからの1年足らずは、いつ死んでもしかたがないのだから、タイムリミットを決めることは無意味となる。また、この「タイムリミットを決めてそれを守る」生き方に疲れた気がしないでもない。そこで、これからの最後の1年は、中途で終わっても良いから、ゆっくりとしたいことをしてみようと思った。

「したいこと」を、私は「基本的欲求」「受動的欲求」「能動的欲求」の3種類に分けて考えている。衣食住や酒歌女本などの「基本的欲求」は常に80%以上満たされてきた。しかし、鑑賞などの「受動的欲求」は50%くらいを果たせた程度で、それよりも、何かを創るという「能動的欲求」を優先してきた。だから「したいことの60%を果たした」などという場合の「したいこと」「能動的欲求」を指している。

しかし、古稀となり、時間が限られていることを自覚すると、65%くらいは達成できたと感じる「能動的欲求」にばかりエネルギーを集中せず、「受動的欲求」も満たしたい気持になってきた。こちらも合格最低点の60%くらいは果たしたいと思う。

前置きが長くなったが、古稀の誕生日に心に決めたことを書いておく。書くほどのことでもないかもしれないが、宣言しておくのが私の生きるスタイル、これは変えないでおきたい。

古稀の私の生き方
1.タイムリミットから自由になる
2.マイペースで、妻と残りの人生を過ごす
3.鑑賞などの受動的欲求を満たすことを増やしていく
4.夕食の腹十二分目を腹十分目に減らす
5.普段のアルコール量をこれまでの半分とする

以上は、古稀の間のきめごと、もし、古稀を過ぎて命があれば、それからはおまけの人生。おまけの人生のことは、そこに入ってから決めるのが道理。タイムスケジュール、腹十二分目の復活もありえないわけではない。

最後に「古稀」の70歳は数え年か、満年齢かについて書いておく。
「古希」は本来「古稀」の意味で、中国唐代の詩人杜甫の「曲江詩」の詩句にある「人生七十古来稀」に由来する。ものの本は数え年とするものも多いが、皇室の美智子皇后陛下、常陸宮正仁親王のいずれの場合も、満年齢70歳を古希の誕生日とされていることから、これからは満年齢が慣例になるものと思われる。なお、杜甫は59歳でこの世を去ったとのことだ。

<2006.4.23.>

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