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 2012年8月4日、山口の最長老のおひとりである下山口の岡本佐久次さんによる公民館講座「戦争体験を語る」が開催された。
 今や数少なくなった実際の戦争体験者の生の声だった。「ラバウルでの3年間の体験を聞いていただき、戦争を知らない多くの人たちに、平和の有難さを知っていただきたい」という案内チラシに綴られた講師の想いを受けとめたいと思った。
 受講後、そんな気持から以下のレポートを綴り、自身のブログで公開した。
今年90歳を迎えるという講師は、昭和17年、20歳を迎え徴兵検査で乙種合格となる。翌年5月、山口村役場から召集令状が届いた。6月30日の出征の日、公智神社で村を挙げての歓送会が開かれた。奇しくもその日は、国鉄有馬線が廃線となった日だった。それまでの国鉄有馬線・有馬口駅からの出征が神有電鉄・田尾寺駅からの出征となった。国鉄神戸駅から臨時列車で呉駅に到着し、呉海兵団に入団した。
呉海兵団入団後の8月頃、下士官室に呼ばれた。女性から届いた手紙を示され「たるんどる」と叱責された。軍人精神注入棒で後向きに立たされ、数回叩かれた。結局、手紙は見せられることはなく没収され、非人間的な軍隊生活を思い知らされた。
10月始めにラバウルに向けての出港が告げられた。休日に町の写真屋で記念写真を撮り自宅に送った。終戦後に自宅に戻るとその写真は届けられており、今も手元に残されている貴重な思い出の写真である。
乗船したのは航空母艦・雲鷹(うんよう)で客船・八幡丸(やわたまる)を改装したものだった。見張当番だった10月16日に公智神社の秋祭りを偲んでいた記憶が残っている。トラック島に上陸の後、ニューブリテン島のラバウルに到着したのは12月3日だった。  
ラバウルは日本から南4000kmに位置するニューブリテン島の東端の町で、現在のパプアニューギニア独立国の東ニューブリテン州の州都である。上陸当時は、東側に位置するガナルカナル島の前線基地が昭和18年2月に撤退し、ラバウルが日本軍の最前線基地となっていた。
昭和19年2月以降、連合軍によるラバウル空襲が連日のように続くようになった。この間、米軍の上陸に備え、陣地の構築に明け暮れた。この頃、港に接岸した病院船・氷川丸の真っ白な船体を目撃したり、従軍慰安婦と呼ばれた韓国人女性の存在を知った。
連日の空襲ではあったが、不思議と日曜だけは避けられていた。今にして思えば日曜休日といういかにもアメリカ的な攻撃パターンだったのだ。これに対し二つの飛行場からの迎撃が皆無だったのは、既にそれだけの余力がなかったのだろう。食糧不足による栄養失調が心配だった。幸い、部隊長の指示で空襲の合間に芋畑を開墾し薩摩芋で飢えを凌いだ。現地の風土病である熱帯性マラリアにも悩まされた。激しい高熱と吐き気や頭痛に襲われた。
その後、連合軍は日本軍の頑強な抵抗が予想されるラバウルを占領せず包囲するにとどめ、ラバウルより日本寄りのサイパン、グァムの内南洋諸島を直接占領した。その結果ラバウルは孤立した日本軍が終戦まで占領することになった。結果的にそのことが幸いして無事に復員できることに繋がった。ただ、当時の日本軍兵士たちの遺骨は今尚ラバウルに残されたままになっている。
昭和20年8月15日、平日ながら空襲はなく、8月16日になって全員が本部に招集され、終戦を告げられた。8月末にはオーストラリアの陸軍部隊が上陸侵攻してきた。
11月頃にはラバウル奥地に8カ所の収容所が造られ、第7収容所での捕虜生活が始まった。約6カ月の捕虜生活は、後に聞いたシベリアの抑留生活ほどには過酷なものではなかった。
昭和21年5月末に復員船の米国輸送船に乗船し、10日ほどで名古屋港に到着した。大阪、三田、田尾寺を経て作業服に身を包んだ着の身着のままでの山口への帰還となった。
二つの所持品を身に着けていた。ひとつは出征時に贈られた寄せ書きを集めた日の丸で、今ひとつは帰還決定後に渡された海軍履歴表だった(実際にその二つの現物を持参され、会場で披露された)。これを見ると、二等水兵、一等水兵、上等水兵、水兵長と昇進していると記載されているが、辞令をもらったことは一度もなかった。兵役中の給料も支払われたことはなく、12年以上の勤続者に支給される軍人恩給も期間不足で貰えなかった。 
 
最後に、講師の感想が語られた。「山口でもこの戦争で100名以上もの戦死者を出した。戦争は勝っても負けても国民に多大な犠牲を強いるものであることをあらためて伝えたい。90歳を迎えて今のうちに自分の体験を伝え、そうした想いを受け継いでほしいと思い、今回の講座を設けさせてもらった」。
講師は復員後は鉄道会社に勤務し、労組役員などを経て市会議員にも就任された方だ。リタイヤ後は宮っ子山口版編集長を始め多くの地域活動に携わり、郷土史への造詣も深い。 
 
講師の岡本さんとは、個人的にもこの「地域紹介サイト・にしのみや山口風土記」の執筆に当たって、幾度も教えを乞うたり情報や資料の提供を頂き、懇意にして頂いていた。
講座後しばらくして岡本さんと偶然お会いした。受講レポートをHP「にしのみや山口風土記」に掲載させてもらえないか、できれば呉で撮られた若き日の写真や海軍履歴表も紹介させてほしいとお願いした。快諾を頂き、原稿のチェックと画像データを提供頂いた。
岡本さんの復員は、配属先がラバウルだったことが幸いしたようだ。連合軍がラバウル要塞での戦闘を避けて孤立化作戦を取ったことが、終戦まで日本軍がラバウルを維持できたことにつながった。そして岡本さんは帰還に当たって海軍履歴表を受取り無事復員された。
多くの人が戦死した中での生還だけに、戦争の悲惨さを伝えておきたいという想いが卒寿を迎えて募ったことは想像に難くない。貴重な体験を伝えて頂いたことに「戦争を知らない世代」としてあらためて感謝した。