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北六甲台物語
■1982年に西宮北六甲台の第1期分譲が始まった。以来20数年を経て成熟した街並みが広がってきた。2005年10月現在の世帯数は1,750を数え、人口約5,500名を擁する山口地区最大の住宅街である。住宅開発はほぼ完成に近づいているものの、いくつかのエリアでは今尚、開発が進行中である。
■北六甲台の中心施設は、住宅街のほぼ中心に位置するコミュニティーセンター、通称コミセンである。その鋭角的な屋根をもった特徴的な建物は北六甲台のランドマークともいえる。自治会の広報誌「とんがりぼうし」の由来である。
■北六甲台は、功地山を切り開いて開発された住宅街である。功地山は、大化の改新当時の孝徳天皇の有馬温泉行幸の際の行宮造営の材木をきりだした山といわれている。通称お天上山とも呼ばれていた。
■山口村誌には、北六甲台開発前の功地山とその周辺の航空写真が掲載されている。中国自動車道も丸山ダムや金仙時湖もない、恐らく大化の改新当時の自然に近い風景が偲ばれる写真だ。
 天上公園内には、西暦千年頃までこの地に公智神社が鎮座していたとの石碑がある。向山公園にも「高塚古墳伝承地之跡の碑」がある。この地が山口郷を開発した先人達の古墳があったと伝えられるという碑文が刻まれている。ちなみに「天上」「平尻」「鍋倉」「向山」等の北六甲台の各公園の名前はこの地に昔から伝わる地名に由来している。
■私たちの住むこの街が、1360年以上もの歴史を伝承する丘陵地を切り開いて開発されたという事実に、ある種の痛みと感慨を覚えてしまう。それだけにこの街をとりまく自然と環境を大切にしたいと思う。また古代から続く山口村の旧来の地域との良い関係を願わずにはおれない。
■第一期分譲を購入した私たち家族は、1983年の春に北六甲台に移り住んだ。公園もなく、バスの団地内乗り入れもなく、小学校も、スーパーもない未開の地だった。通勤は下山口バス停まで歩きそこから約30分かけて宝塚に出て、電車で大阪市内まで辿りつくという合わせて2時間近くのまさしく痛勤だった。
■現在、北六甲台には大小合わせて7ケ所の公園がある。1983年秋には団地内を阪急バスが乗入れが実現した。1986年、JR西宮名塩駅が完成し大阪までを約30分で結んでいる。1987年秋には今はパントリーになっているパナ西友北六甲台店がオープンした。1985年、幸幼稚園が開園し、1989年には、北六甲台小学校も開校した。
 移り住んだ頃から見ると、生活環境は飛躍的に向上し、住宅街を取り巻く豊かな自然と相俟って快適で充実した住環境を享受できているといってよい。
■とはいえ、問題がないわけではない。新興住宅街特有の住民間の結びつきの希薄さは否定しがたい。空巣被害の著しさはその裏返しとも言える。開発主体だった松下興産が事業清算し、住宅街のコアが喪失した。これに代わるべき主体となる自治会組織も1,700世帯もの住民を単一組織で運営している脆弱さを抱えている。緊急事態への対応の遅れや重大問題の先送りの懸念が付きまとう。
■西宮市の情報インフラは他の市町村に抜きん出ていると思われる。中でも地図案内サービスである「道知る兵衛」は秀逸である。下記の北六甲台の図面と空港写真は「道知る兵衛」から入手したものである。