トップ 山口の竹籠 船坂の寒天




 山口には「竹篭づくり」の伝統産業があった。山口町郷土資料館には山口町の代表的な特産物である「和紙」「竹篭」「寒天」について、その技法や作品が展示され、技と匠の素晴らしさが紹介されている。
 竹篭づくりの展示コーナー(左画像)では、家族労働で行なわれていた当時の作業の様子を再現したジオラマ(右画像)や、多数の竹篭の製品(下記画像)、道具類が展示され、「竹篭資料館」ともいうべき内容である。
 山口の「竹篭づくり」については、昭和59年(1984)市立西宮東高等学校地歴部発行の冊子「変容する西宮北部」に詳しい。以下、同誌の「山口町の竹細工」の記述からの紹介である。この冊子の発行時点は6軒の生産者が残っていたが、20数年を経た現在は、全て廃業のやむなきに至っている。 
 山口の竹篭づくりの起源は、江戸時代にさかのぼる。当時の農民の副業として広まった。元来は「有馬篭」の名称で有馬温泉の入浴客向けの土産物として作られたものである。付近の原材料を使い、農閑期の余剰労働力や女子の労働力を使って、有馬温泉の購買力に依存して開始された。
 徳川末期に竹篭は、大阪商人によって初めて長崎港からオランダに輸出された。ついで明治8年(1875)に神戸港茶取扱商館主が製茶輸出の外装箱に竹篭の利用を考案し、その製造を有馬に発注し、山口がこの注文を受けることで貿易の端緒を掴んだのである。明治15年、神戸の貿易商の大橋商店が、山口の竹篭を米国向けの静岡産の茶の容器として輸出した。
 明治20年頃から30年代にかけて実用的なものが手広く作られるようになった。また明治30年頃から竹材に柳や経木を支えとして使用し始め、更に染色も試みられるようにうなった。このため美術的価値が高まり、輸出や国内需要が増え製造も増加した。
 第二次大戦後、減少していた竹篭生産が再び活発になり、米国への大量の輸出が再開された。しかしその後安価で手軽なプラスチック製品が急速に普及し、竹篭生産は次第に衰退していった。
  山口の氏神でもある公智神社の境内には竹篭業者の守護神として「竹篭の神(塩津神社)」が祀られている。案内立札には下記の記述がある。
滋賀県伊香郡塩津村に鎮座す、塩土翁(しおうすのおきな)、火々出見命(ひこほほでみのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の三神を祀る 塩土翁は国神にして別名識槌翁(しきつちのおきな)とも言う。博学多才の神にて竹の目無篭(ア代編)の舟を作り、山の幸彦命を海宮に送るの古事あり(古事記)
 昭和27年11月、竹篭組合の事業として滋賀県伊香郡塩津村、塩津神社より御分身を受け、公智神社境内に一社を建立して竹篭業者の守護神として祭る
                            有馬竹製品商工企業組合
                             財団法人山口町 徳風会