トップ 竹篭 寒天

 山口町の船坂では寒冷な気候を生かして、船坂川の両岸を中心に寒天づくりが盛んであった。明治18年(1885)頃から始まった船坂の寒天づくりは、昭和初期にピークを迎えたものの、残念ながら平成10年(1998)頃を最期に全工場が廃業した。
 山口町郷土資料館には山口町の代表的な特産物である「和紙」「竹篭」「寒天」について、その技法や作品が展示され、技と匠の素晴らしさが紹介されている。寒天づくりの展示コーナー(左画像)では、当時の作業の様子を写真や、多数の道具類が展示されている。また資料館の裏側には船坂の寒天づくりに使用された大釜が据えられている。
 西宮市の広報紙「宮っ子」1990年12月号には、船坂の寒天づくりの様子を記した記事が掲載されている。当時、一軒だけかろうじて生産を継続していた古藪さんという方の廃業前の紹介記事である。今となっては貴重な「手造り寒天」の作業の様子を伝えるものであり、以下に記事を転載して紹介したい。
 夜明けの冷え込みはきびしく、吐く息も白く、足元の枯れ草にうっすらと霜の降りる12月ともなれば、ここ船坂の古藪さんの田んぼ一面が白銀に輝きます。
 前夜から原料の海草テングサ(天草)を煮つめ、しぼり、流し箱に仕込まれたトコロテン(心天)を、夜明けとともに三人一組で、天筒に入れる、突き出す、そして箕の子にすのこひろげる作業の繰り返し、またたくうちに、心天のじゅうたんがひろがっていきます。
 野天に干されて約十日間、その間、夜の冷え込みで凍り、そして昼間の気温上昇で氷が解けて脱水・・・・の繰り返しで徐々に乾燥していきます。阪神間で天日による自然乾燥の「手造り寒天」が見られるのは、ここ船坂と、川西、猪名川、能勢、高槻だけとか。
 世の中のあらゆる産業が機械化されていく中で、それでも「手造り」、しかも、原料の海草テングサも、最近は遠く南米や台湾などの外国産が多い中で、あくまでも四国のテングサを使用、その上、脱色剤など一切使わない純生自然食品製造へのこだわりが、透き通るような絹白色の糸の束にも似た糸寒天に仕上がっていくのです。和菓子の材料として、なくてはならない寒天の誕生の営みが、極寒の船坂の里で二月中旬頃まで続けられます。
 船坂の「寒天づくり」については、昭和59年(1984)市立西宮東高等学校地歴部発行の冊子「変容する西宮北部」に詳しい。以下、同誌の「山口町船坂における寒天業」の記述から抜粋して紹介したい。この冊子の発行時に尚1軒の生産者が残っていたが、1998年頃にはその唯一の生産者も廃業のやむなきに至っている。尚、下記の画像はかっての寒天工場周辺の現在の風景である。 
  寒天は江戸時代初期に京都伏見で発見された。1800年頃には摂津一帯の3郡18村に広がった。1840年頃には丹波地方に広まり、その後信州地方に広まり、明治維新後には全国的に広まった。明治初年に兵庫県川辺郡の六甲地方に伝わり、この時に西宮にも伝わったと思われる。
 摂津国島上郡原(現在の高槻市原)から西宮の人が学んで持ち帰り鷲林寺(旧武庫郡大社村)社家郷村にもたらされた。鷲林寺の福井豊助が西宮での寒天製造の創始者と考えられている。
 その後、寒天製造は、標高が高く裏六甲の内陸的気候のため冬の寒さが厳しい船坂地域に移されるようになった。明治18年に船坂神子ケ畑に建てられた工場が始まりである。昭和初期には最盛期を迎え、昭和15年頃には船坂川の金仙寺付近から船坂までの川沿いに13工場が操業していた。
 船坂の寒天づくりに従事する人は、ほとんどが氷上郡をはじめとした丹波地方からの出稼ぎの人たちだった。当時の仕事歌(左画像)にもその気持ちが伝わっている。 
 寒天は、トコロテン(心太)を一度凍らせ天日で温め、氷をとかして製造したもので、寒ざらしの心太の略称をいう。
 船坂には、西北方向に流れる船坂川と、北東方向に流れる太多田川とがある。川の流域には緩やかな傾斜地が続いている。北方には畑山などの山々が南方には船坂峠と六甲山塊の山々が続いている。
 北方の山は製品に有害な冬季の北西モンスーン「キタイテ」をさえぎり、湿気を取り除く。西方の山は、午後の太陽を早く遮断し、太陽の強い直射を緩和する働きがある。また東方が開かれていることは、午前中の緩やかな日光が徐々に凍結心太を融解させて理想的な製品を作りだす。また谷底平野の河谷沿いの細長い平地は、寒天干し場としても恵まれた地形となっている。
 寒天を製造するにあたっての第一の条件は気温であが、船坂の製造期間の気温は、最高気温が平均11.8℃〜6.4度、最低気温は2.3℃〜−2.1℃であり、この条件を満たしている。また多量の水があることが必要である。鉄分が少なく軟水で泥土の少ない清澄な良質水を豊富に得られる河川が必要である。船坂川と太多田川はこれらの条件を満たしている。