「From Silence to Silence」2006
小佐野圭
pp(ピアニッシモ)で終える曲を聴くと、どなたも息をのむような静寂(Silence)をお感じになることでしょう。Silenceとは演奏家が作り出すのではなく、聴衆が自分自身の内面へ入った時に感じとるもので、聴衆自身が作り出すと言っても過言ではありません。自分自身を見出だした時に初めて他者がわかるように、音のない状態がわかれば、音のにぎやかさがわかります。つまり静寂の中にこそ、音を感じることができるのです。
では、演奏する側に目を転じてみましょう。我々自身は、本当の音、真実たる音が何かを、認識できているでしょうか。例えば声楽家は、自分の発している声が頭蓋骨やあご等に響いているため、客観的に音を認識できません。そこで、「こういう声を出せば、こういう風にホールでは聞こえるだろう」という推理を行いながら、日夜練習に励んでいるわけです。一流のピアニストといえども、ほとんどが普段は狭い音響空間で練習していると思います。その自分のピアノを、別のすばらしい音響空間で聴いたらどうなるのでしょうか。おそらく、自宅で聴いている音とは異なる音に聴こえると思います。このように音とは環境によって異なり、どれが「本当の音」なのかを認識するのは困難なことです。
また、ステージ上で演奏している時の音と、会場の最後列で聴く音も全く異なります。ですから演奏者は、最後部の聴衆は自分の音をどのように聴いてくれるのだろうか、という推理を働かせながら演奏しなくてはなりません。それは経験による直感でしか、到達する事は不可能だと思うのです。
光を見ることができないのと同じように、音楽を手にとって触れることはできません。グゼミリアンは「僕らが見るのは反射鏡(reflection)の連なりだ」と述べていますが、すなわち音とは、聴衆によって「反射された像」だと言えます。ですから、それを推理する思考がなければ、せっかくの分析が無駄になってしまうのです。
演奏者が出している音は、必ず消え去ります。その息をのむような静寂(Silence)の瞬間に、聴衆は音の存在を感じるわけです。京都の龍安寺にある石庭*を観た欧州の思想家が、「禅の思想で考えれば、庭は単なる鑑賞の対象として眺めるだけの空間ではなく、心の内に庭を見ることを意味する」**と述べていますが、我々もそのような精神を持つべきではないでしょうか。つまりスピードや正確さではなく、聴衆の「心の庭」の中にどんな音が鳴り響くのか?それを演奏者は推しはかり、音を作る必要があると思います。
『Our Music』261号 全日本ピアノ指導者協会(PTNA)2006年10月31日発行 巻頭ページ掲載