これまで、ただひたすら芸術の道を歩んで来た。この度、富士吉田文化振興協会(川上洋一郎会長)より名誉ある第二十一回「芙蓉文化賞」を賜り、感激して胸がいっぱいだ。芸の道において、家族はもちろんだが、多くの恩師、友人、先輩の方々との出会いがあり、影となり日向となり応援していただいたことで今の自分があると思っている。心より御礼申し上げたい。
名誉ある賞の受賞に際し、手前味噌だが、現在も河口湖町で元気に暮らしている九十一歳の父と八十四歳の母に報告できたことも何よりの喜びだ。
渦中の私は、与えられた仕事を与えられた場所で精一杯、やってきたまで。寝る間を惜しみ、と言いたいところだが、昨今の働き方改革で、私もちょうど勤め先大学で後輩教員を指導する立場にあり、なかなかその言葉を大きな声では言いづらい世の中になって来た。しかしながら、限られた時間の中で大学教員と演奏家という二足のわらじを履くためには、深夜早朝問わずピアノに向かうこともしばしばである。他人から見れば、苦労と思われることも、好きなことであれば苦ではない。むしろそのことで、幸せな経験を味わせてもらったことがどれほどあろうか。ピアノの演奏で訪れた様々な国があるが、国と国との間で政治的な情勢が不安定な時期においても芸術の道に国境はなく、人と人の温かな心の交流を感じることが多々あった。
受賞に際し新たな責務をいただいたと感じている。今後はより一層、地元、山梨のために何か音楽で役立せていただきたいと思う。
私は一九五八年(昭和三十三年一月二日)、富士の見える風光明媚な河口湖町河口で生まれた。親父も母親も教員をしていたので、幼少から小学校高学年まで祖母に育てられた。祖母はよく面倒を見てくれた。保育園は河口村に通い、小学校、中学校は大石村(河口村から車で十五分ほどの場所)に引っ越して通った。スポーツは全般的に好きだったので、将来はスポーツ選手になるのが夢だった。
「ピアノの手ほどき」は母親だった。(写真1) ピアノ奏法よりは読譜を習った。母親は幼少の頃から当時の蓄音機でオペラの曲やオーケストラの曲を聴いていたらしい。小学校の教員だった母は音楽が得意だった。合唱の指揮をしたり、歌ったりするのはよく耳にしていた。母親の音楽好きは八四歳になる現在も健在で、富士吉田市のおかあさんコーラス(富士吉田コール白樺)のメッゾパートで今も頑張っている。私のピアノと言えば、習いたての頃は右も左もわからず親の言うなりにやっていたと記憶している。音楽好きな母親の意思が私の音楽への道を決定づける道筋になったことは、間違いない。私が小学校から中学校時代(1935-1945)の世間では「男なのにピアノなんて」という考え方が多かったと母親は言う。親戚もピアノを習うことは、決して、賛同していなかったようである。しかし、町の音楽会(河口湖町湖畔音楽会)で私が合唱の伴奏をしたことが、ある先生の耳にとまりその教員が母親に僕のことを褒めてくださったことが、ピアノを専門に習わせる契機となったようである。
母の次に習ったのは、富士吉田にあるヤマハ音楽教室の美人の先生だった。(写真2)
ヤマハは二年ほどで終了し、次は後の母校となる、県立吉田高校の教諭だった長田明男先生に習う。背が高くイケ面の先生だった。叱られた思いは一度もなく(私が鈍感なのかもしれないが、、、)優しい先生だった。長田先生は高校教諭を退職後、陶芸家としても活躍され素晴らしい作品を、作り出した方でもある。テクニックのことばかり教えるのではなく、広い視野で芸術を教えて下さった。(写真3)
週に一回のレッスンは、父親が車を出し、必ず付き添ってくれた。持ち前の責任感の強さか、私が病気でレッスンを休む事(と言っても、一年に一回か二回)はあっても、父親の付き添いがないことはなかった。文句一つ言わずに、河口湖町大石から富士吉田、甲府までよく付き合ってくれたと思う。「やるならとことんやれ」が信条だった父は、私がピアノの練習をさぼっている時に、ただ一言「身ーしみてやれ」(身を入れてやれ)と言ったことが印象に残っている。滅多に口だししない親父の言葉だっただけに、重みがあった。この一言で集中して勉強する姿勢ができたような気がする。
小学校高学年になって、国立音楽大学出身の数野洋子先生に本格的に習うようになった。通常一時間のレッスンを、三時間も渾身丁寧に教えて下さった。子供ながら先生の熱意に打たれ、頑張らなくては、という思いで練習した。数野先生には生活全般において、「誠意ある行動」と「努力すること」の大切さを学んだ。
数野先生のレッスンは、国立市内の先生宅(ご実家は甲府)で行った。そのお宅にわざわざ連れて行ってくださったのが、後、大切な人生の恩師の一人になる種田靖子先生である。先生には、言葉では言い尽くせないほど、今現在でもお世話になっている。「生みの親」ならずとも「育ての親」として尊敬している。
中学一年の時、「竹の子会ピアノ発表会(主宰は数野洋子先生)」でベートーヴェン作曲「ロンド作品五十一」を弾いた。そのあと、数野先生が「虹の会(坪野春枝先生主宰)」への出演のオファーをくださった。この会は、音大へ行くための登竜門で、専門にピアノを学ぶためには出演したほうが良いと推薦してくれた。これが、ピアニストへの扉になったと思う。シューベルト作曲「即興曲作品九○の一」を「虹の会」で演奏した。この時、大学時代の恩師となる藤澤克江先生がはじめて演奏を聴いてくださった。(写真4)
国立音楽大学受験は三日間、実技のピアノ、ソルフェージュ、学科等の試験が実施された。この受験時期は、先輩の駒沢とみ子さん(国立音楽大学教授)に、宿泊、食事の支度、ピアノの練習場所提供、さらに本番へのご助言まで本当にお世話になった。受験時の本番の演奏は、多くの受験生が神経質になっていて、なかなか普段通りの力が発揮できないことが多いが、私は全くそんなことはなく、いつも通りの演奏ができた。これは、駒沢さんの至れり尽くせりの「ケア」のおかげである。今でも、受験時のことを思い出すと、駒沢さんには頭がさがる思いでいっぱいだ。
今は亡き大庭三郎先生は藤澤先生が指導する発表会によくいらして下さり、全体の講評をしてくださった。抑揚豊かな話しぶりは、子供心にとても印象的で、今でもはっきりと当時のことを思い出せるほどである。「大庭先生って面白い人」と子供心に感じた。その後にピアノの伴奏者として共演させていただくことになろうとは思ってもみなかったが、先生との出会いがあって本当に幸せだった。
大庭先生と藤澤先生の関係はとても深い。藤澤先生は現在の「富士吉田市民合唱団」の前身である「四葉の家コーラス」を戦時中、教えていたとのこと。大庭先生は「富士吉田市民合唱団」を創設(一九五二年)した。大庭先生の晩年に、富士吉田市内の某店で、お酒を酌み交わしたことがあった。その時、先生の生い立ちや、音楽活動のこと、岡本敏明先生との出会い等、人生の様々なお話を伺ったことがあった。家業の牛乳店を継がずに、音楽の道を貫いたこと、周りの反対を押し切って国立音楽大学(作曲科)で学んだこと。そして「圭くん、故郷を大切にしろよ」という言葉は、しっかり脳裏に焼き付いている。心から感謝を捧げたい。
前述したように、大庭先生率いる合唱団の伴奏を数多くさせていただいた。合唱指導するとき、お母さんたちの笑いは常に耐えなかった。山梨の方言丸出しで、ご自分の言葉で伝える指導法は特別な魅力があった。(写真5)
大庭先生から多く学んだことは、音楽への向き合い方はもとより、「人との接し方」であったように思う。今でこそ、人前に立って話をすることに何のためらいもないが、坊主頭の若い頃は首を縦にふるか、横にふるかの寡黙な少年であったのだ。その少年が社会に出るときに人との接し方の規範となっていたのが大庭先生だったように思う。お金では買えないもの、信念というものを肩肘張らずに教えてくださった。大庭先生が亡くなってから先生の残した音楽は、私の先輩にあたる国立音大出身の渡辺公男先生に受け継がれ、さらに、大きく発展している。その後、私は公男先生の指揮のもと、ピアノ伴奏をさせていただき、全国各地で演奏会を行っている。さらに、大庭先生が設立され、現在、ご子息の大庭茂さんが経営している「合唱の家おおば」に、毎夏、学生たちを連れて音楽セミナーをさせていただいている。ご縁は今でも続いている。
それまでお世話になっていた藤澤先生が国立音楽大学のピアノ科の先生だったこともあり、大学は国立音楽大学を迷わず志望し、入学した。藤澤先生は今年百一歳で今尚お元気に東京の施設で過ごされてる。藤澤先生は「何事も誠意を持って一生懸命すること」ということを常におっしゃられ、妥協のないレッスンをしてくださった。藤澤先生のレッスンはとても厳しく、先生のご自宅のある角を曲がるとお腹が痛くなったり、鼻水が止まらなくなったりした学生が多かったらしいが、私にはそのような記憶は無い。当時を知る人に言わせれば、「小佐野くんには甘かった」ということなので、可愛がっていただいていたのだろう。大学院では久本成夫先生にお習いした。久本先生は、奥様がソプラノ歌手の奥田智恵子さんで、アンサンブル奏者としても名声が高かった。先生からは「神経質にならずに楽しく演奏しなさい」と、丁寧にご指導いただいた。ピアノの恩師としてはもう一人、忘れてはならない人がいる。御木本澄子先生である。御木本先生は近代的なピアノテクニックのトレーニング方法を考案した人物である。御木本先生は高校時代から指導を受けていたが、大学に入るまでは、親子同伴でなければレッスンはしてもらえず、常に母親を同伴してレッスンを受けた。指のトレーニングとピアノレッスンの両方を見ていただいた。先生が考えられた指のトレーニングは、ピアニストが練習するときになるべく鍵盤上で機械的な練習を排除できるようにと脳、骨格、筋肉の科学的研究に基づいていた。簡潔に言えば、御木本先生は合理的なテクニックを教えてくれた恩師だ。「ミキモトメソッド」考案者である。先生のお祖父様は世界で初めて真珠の養殖に成功した実業家、真珠のミキモト、御木本幸吉である。そのようなお家柄の邸宅には、世界的に活躍する音楽家の出入りがあり、そこで私は特別レッスンを受けさせていただくことも多々あった。
国立音楽大学での海外演奏家による学内公開レッスンや御木本邸でのレッスン時には英語やドイツ語でのレッスンだったが、不思議と困った記憶がない。今でこそ英語でレッスンを推奨している身であるものの、当時は言語より音で意思疎通していたのかもしれない。世界的な指揮者であるサヴァリッシュや現在もピアニストとして活躍しているエリック・ハイドシェック、アルバート・ロトー、クラウス・ヘルヴィッヒ、ヘルムート・バルト、イェルク・デムス、各氏から学んだことは計り知れない。(写真6)
まさに「教育」を受けさせていただいたからこその知的財産である。「教育」というものは、すぐには成果が出ないが、のちにそのありがたさがわかるもの、つくづくそう思う。
大学院修了後、「応援するからリサイタルをやりなさい」と言って下さったのは、数野先生とその先輩である種田先生だった。当時のクラシック界では(現在も同じかもしれないが)、お客さんを動員する力が不足していて、演奏家にとっては「動員」の問題が一番の課題だった。お二人の先生たちは「動員は私がする」と、全面協力を約束して応援してくださったのである。山梨県民文化ホール(現在、コラニー文化ホール)こけら落としの年にあたる一九八二年(昭和五七)にデビュー・リサイタルを行った。以来、全国各地でリサイタルを行っている。演奏会の度に常に応援してくださる方が多くいることは、私にとってこの上ない幸福なことである。
社会人となり、非常勤講師として音大や音楽科のある高校で働いていたが、二八歳の時、玉川大学芸術学部(旧:文学部、芸術学科)教員として採用が決まった。石垣良彦先生、江口正之先生はじめ、多くの恩師との出会いがあった。今は亡き石垣先生から「小佐野君、玉川大学は一般音楽という授業がある。全人教育の一環で、楽譜が読める、読めないに関わらず、一年生全員、必修の授業としてベートーヴェンの第九を歌う。ピアノの個人レッスンだけでなく、裾野を広げた音楽活動をしてほしい」と言われた。何百人もの履修者がいる学生を教員一人で指導をする授業だということは理解していたが、玉川に赴任してから間もなかったのでまだ、小原教育がどんな教育なのか、音楽教育について理解不足だった。だから、学生たちと同じような思いでこの授業をピアニストの立場で担当者がどのような指導をするのか、教えさせていただこう、と決意したものだった。
玉川学園の音楽教育を語る上で外せないのは、校歌を作曲した岡本敏明先生だ。直接、お目にかかる機会はなかったが、大庭先生から伺っていた岡本先生との話の数々がここで繋がったのである。
何も知らないで玉川学園の教員になったが、ご縁とは不思議なものだ。国立音楽大学の教育の基本、音楽教育の理念たるものを玉川学園でも共有していることに驚いた。大学時代はピアニストの道だけを歩んできたが、玉川学園で勤めるようになり「音楽教育とは何か」という課題を掲げ、教育に邁進していくことになった。
ピアニストの活動に加えて指揮活動を行うピアニストは数多くいる。ウラディミール・アシュケナージや、ダニエル・バレンボイム、クリストフ・エッシェンバッハなど枚挙にいとまがない。私自身はといえば、ピアニストを目指して勉強してきたので、勤務先大学で“第九”の指揮をするとは、思ってもいないことだった。二十年以上もピアニストとして授業に関わり、授業の目的を把握するようになった頃、指揮をするかどうか、と考え始めていた。同僚の後押しとともに、妻の一言「ピアニストで指揮をするチャンスがあるなんて素敵なことじゃない」この言葉でまた新たな扉を開けることになった。
「じゃあ、やってみるか」、と決断した。自分でスコアを読み、暗譜した。多くの指導者の助言を仰ぎながら勉強した。
玉川大学音楽祭は、前述の一年生必修科目の集大成としての発表の場であり、指揮者は一○○○名ほどの合唱人数の指揮を担当することになる。
「指揮がうまい」だけでは、学生たちはついてきてくれない。誠心誠意、全身全霊で、学生と向き合わなければならないのである。指揮とオーケストラ(以下、オケ)あるいは指揮と合唱の関係は教師と生徒の関係に似ているともよく言われる。また会社ならば、上司と部下との関係とも。学生やオケとの信頼関係が最も重要であることは言うまでもない。二○一七年十二月十九日横浜パシフィコ(大)における五回目の“第九”の指揮も無事終わった。
“第九”を指揮して学んだことは、「演奏者の心を引き出すこと」である。ひとりひとりの個性を活かしながら、 共同体を発展させていくこと。決して強制ではなく、演奏者の個人を尊重することである。音楽にプロもアマチュアもない。音楽を通して心の繋がりができるということ、そして何より、多くの人間が同じ目的に向かって一つになり、達成感を味わうことができることは音楽の持つ力である。その時その場所で共有できる瞬間が素晴らしい。これは、集中力を生み出し、静寂を知ることにもなる。(写真7)
(第九指揮本番 横浜パシフィコ国立大ホールにて 2017年12月19日)
ベートーヴェンの作品を学んでいるといつもハッとさせられる場面がある。例えば“第九”四楽章の「329〜330小節」の合唱は「Vor Gott」と高らかに「ff」で歌う。ベートーヴェンが音響効果を最大限に発揮した箇所である。指揮者は「330小節のフェルマータ」で長く伸ばした音の後、オケも合唱も延長した音を遮断し、「静寂」を作り出す。正確に言うならば「330小節」が終わり、「331小節 Allegro assai vivace alla marcia」に入る前の「間」である。その「静寂」は、圧倒的な緊張感を生み出す。聴衆もその「静寂」によって息を飲む瞬間となる。このような「静寂」をつくりだしたのがベートーヴェンの音楽の力である。その「静寂」の空間はあたかも、哲学者が「無」を語ることに通じているように思える。鈴木大拙は「人間が、空なる存在を自覚する、ということが仏教の、そして禅の、目的なのである。」と言った。まさに、大拙が言うところの「空なる存在」である。大拙の禅の思考は20世紀、ジョン・ケージにも影響を与え、ケージは「4分33秒」という曲にしたという説もある。“第九”のこの「静寂空間」は、歌う方も弾く方も、聞く方も全ての時が止まり、「無」に成る瞬間をベートーヴェンはつくりだしたのである。
教育的な意味でも、この「無」を体験させることは実に意味深いものである。
この「無」で学生たちは本番中に何を感じたのであろうか。
指揮をすることが楽しくなってもピアニストとしての活動も変わらず続けていた。学生たちに伝えたい、自分自身をもう一度見つめ直すことにもなろうかと、二〇〇五年から二〇一二年までの八年間、ベートーヴェンピアノソナタ全曲(三十二曲)を独自のテーマに沿ってタイトルを付け、リサイタルを実施した。
第7回目を控えていた二〇一一年三月十一日に、あの「東日本大震災」が起きた。冒頭にも書いたが、ただひたすら芸術の道を歩んできた私にとっても、この未曾有の震災は大きな心的ダメージを受けた。私に直接的な被害はなかったものの、三月二十九日東京文化会館で第七回「希望」というテーマをかかえてリサイタルを開催するかどうか悩んでいた。
未曾有の震災から十八日間しか経過していない時に、ピアノリサイタルをやるべきか中止すべきか、周りの方に相談しても、「自粛ムードがあり、やるべきではない」というのがほとんどの考えだったように記憶している。しかしここでまた妻の一言「こう言う時にこそ、平常心を持てる人は持ち、粛々と演奏すべき」。この言葉に後押しされて、計画停電にもめげず、ろうそくの明かりの中練習し、この年も予定通り開催したのだった。(写真8)
(ベートーヴェン全曲リサイタル「第8回目」本番 銀座王子ホール 2012.3.29)
私が八年間でベートーヴェンのピアノソナタ全三十二曲を演奏し終えた時、頭の中に真っ先に浮んだ曲はバッハの平均律クラヴィーア曲集だった。ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)が前者を音楽の新約聖書、後者を音楽の旧約聖書と例えたことも頭の中にあったことは確かだ。バッハが平均律クラヴィーア曲集としてまとめ完成したおよそ三百年前から今までどれほどの作曲家、演奏家に影響を与え続けたか、クラシックだけでなく、ジャズや、ポピュラー音楽までその痕跡をたどれることは、バッハ自身も想像できただろうか。
R.シューマン(1810-1856)は著書「音楽の座右名」の中で、平均律クラヴィーア曲集を“日々の糧とするように”と述べている。私自身も錯綜する日々の中、この曲集と向き合ってきた。
バッハの楽曲には、各曲それぞれに異なる「規律」が隠されている。その規律を音楽の三要素(リズム・メロディ・ハーモニー)にあてはめてみれば、いかにバッハが、その三要素を巧みに計算して作曲したかということがわかる。旋律の美しい曲もあれば、舞曲のようなリズムを刻む曲もあり、バッハがまるでパズルのように音型を組み合わせていることがわかってくる。聖母マリア様の悲しみを感じるような曲、沸き上がる希望に満ちた曲、ここには四十八曲(二十四曲のプレリュードとフーガ)それぞれの場面、ドラマがあるのだ。
我々演奏家にとって、フーガというものは、どういうものなのか。命題を与えられているように思える。4つの声部が自由に語り合って、まとめ上げていくポリフォニーの音楽は、様々な人間が入り交じる世の中を映し出しているように思えてならない。そのようなポリフォニー音楽の源泉であるバッハの音楽に、私はまた「規律から生まれる生命力」を強く感じる。1つのモチーフ(動機)から生まれる、壮大な宇宙を。
A.シェーンベルグは、バッハから学んだ点を三つにまとめている。一つは対位法的思考、すなわち、それ自体を伴奏する様な音型を発見する技術、二つはすべてを1つのものから生み出し、それらの音型を互いに導き合う技術、三つは拍の独自性と述べている。
フーガをわかりやすく私たちの生きる社会に例えると、曲全体(社会)の中で、個(モチーフ)というものを大事にして、その個からどのような展開あるいは発想が生まれてくるか、発想の違い、辿る道は様々、時にせかされ、時に緩やかに歩みつつ、相違した個々の意見をどのように全体としてまとめられるかを教えてくれているように思う。(写真9)
私はソロおよびアンサンブル奏者として国内のみならず、ドイツ、フランス、香港、韓国において演奏活動を行ってきた。香港では六声会合唱団の演奏旅行や、ドイツ(マンハイム)では、恩師、藤澤先生のピアノ講座によるアシストと演奏会、一九九〇年から活動を開始したマルグリット・フランスさんとも全国各地、フランスではアルフレード・コルトーが中心に設立したと言われる「エコールノルマル音楽院」内のホールにてDUOリサイタルを行った。ソロとは異なり相手との呼吸を合わせるアンサンブルの楽しさを感じた。「デュオおさの」は一九九四年に結成し全国各地で演奏やトークを交えた鑑賞教室を行っている。二〇一四年十月には釜山にて二台ピアノによるDUOリサイタルを行った。
(パリ エコールノルマル音楽院 1998.2.28)
与えられた仕事を忠実に一生懸命やることには今までと変わりはない。また、やるなら良いものを創るということも変わらない。私の音楽を聴いてくださった方が、自然に「音楽っていいな」と思っていただくだけで良いのであって、音楽によって世の中を動かそうという考えは微塵もない。
時代はネット社会である。デジタル思考が渦巻いて情報過多となり、混乱している。本当に大事なことはいたってシンプルだとわかっていても、惑わされることが多い世の中になってしまった。しかしながら、人の感情はそう変わるものではない。もし、今の時代にベートーヴェンが生きていたら、デジタルサウンドに興味を持つだろうし、コンピュータも使いこなしていたに違いないが、感情の表出という根幹は変わらないと思う。
CDが現在のデジタルメディアによって、売り上げが落ちていると言う。そんな中、レコードやカセットテープがまた新たなブームだそうである。私が大学で講義した時、エジソンや蓄音機の音源に学生が興味を示したように、時代はまた遡って新時代のアナログに戻っているのではないか。手書きで書く味わいを人は求めている。デジタルサウンドが渦巻く世の中で、アコースティックな音もまた、いつも、いつまでも求められているのである。
デジタル社会がこれから継続していくことには変わりはないだろうが、新たなアナログ思考をどのように共存させていくか、新アナログ時代へ向かってどう生きるか、考えていきたい。また、これからの世の中を担う子供たちを応援したい。私はこれからもただひたすらに芸術の道を歩み続ける。
(吉田高校80周年記念演奏会 指揮:渡辺公男 ピアノ:筆者 2017.10.21)