5th Stage <Brain Damage> |
…手は何のためにあるの?…
僕はミサトさんのペンダントを握り締めた。手のひらに十字架の角張った感触が甦る。何もない世界のはずなのに、形を留めたその痛みだけが、僕を実感させる。僕は何度も手に力を込めてその感触を確かめてみる。そして、ゆっくり手を広げる。手のひらから十字架が滑り落ちた瞬間、僕は真っ白になりそうになる。繋がれたペンダントのチェーンの感触を微かに意識しながら、思わず僕は目の前の綾波にこう叫んだ。
「・・・でも、これは違う。違うと思う。」
綾波の目は紅いガラス玉のようにただ僕を見つめている。人形のように整った顔立ちは何の表情も映し出さず僕を見つめている。何者かに操られているように口元がゆっくり開き、優しい声が僕の耳元をくすぐる。
「他人の存在を、今一度望めば、再び心の壁が全ての人々を引き離すわ。また、他人の恐怖が始まるのよ。」
それはまるで僕の心を見透かして包み込むような、冷たいけど温かい声だった。いつも恐怖に逃げ回っていた僕を知っていたような労わりの声だった。
でも、何故か僕にはそのことより自分がなくなることの方が恐ろしいように思えた。あきらめていた忘れものが思わず見つかった時の驚きと喜びが自分に生まれているのを感じていた。
心は何のためにあるの?
また、彼方から綾波の声が聞こえた気がした。
「いいんだ・・・」
僕は綾波の右腕を左手で軽く掴んで、自分の右手を差し出した。
「ありがとう。」
僕は綾波の手を握った。本当に素直な気持ちで綾波に礼を言った。なぜ、綾波に礼を言うのか分らない。でも、僕は綾波への感謝の気持ちで一杯だった。
僕が綾波の右手を掴んだ瞬間、綾波は電気に打たれたように驚いた表情を見せた。でも、握手した時、にっこりと微笑んでくれた。エントリープラグの中で始めて出会った笑顔の何十倍も晴れやかで温かいものに思えた。
綾波の手は柔らかかった。僕の気持ちも穏やかだった。手を放そうとした瞬間、綾波が僕に被さってきたように見えた。でも、重さは感じなかった。綾波は消えてなくなった。そして、ようやく分った気がした。綾波レイがリリスであったことを、綾波レイが僕の中にいるということを、全ての人の中に綾波レイがいるということを、第三新東京市の陽炎の中、出会った少女が僕の綾波であったことを。
でも、目の前をもう一人の綾波が離れて行く気がした。何故か悲しそうな目を向け、ゆっくりと光に溶けていった気がした。
僕は静かに目を閉じた。
水が滴る音がする。
「もう、いいのね?」
母さんの声が聞える。
*
碇シンジが破壊した鏡にはあらゆる光を飲み込んだような黒い空間が無限に広がっている。
なぜココにいるの・・・
自分に問い掛けているのか、相手に問い掛けているのか分らない曖昧な呟きがその中から響く。
少年は、それに向かって大声で叫ぶ。
「でも、僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから。」
少年はその空間に浮かぶ曖昧な光を睨み付ける。片足で思い切り蹴りつけ、眼前の壁を広げると、その白い光を凝視する。そこには透き通るような白い肌をもつ少女の姿。蒼色の頭を少年に向けながら、たった独り暗闇に蹲っているのが見える。
少年はその姿を認めると、強い口調で問い掛ける。
「君は誰だ!」
その声に電気に打たれたようにピクリ肩を震わせると、ゆっくり少女は顔を上げる。精気を感じさせない曖昧な紅い光を少年に向けると、力なく、言い放つ。
「夢の終り」
*
少年に降り注いでいた蒼い光が一瞬に光を増し、辺りは限りない輝きに包まれる。
宇宙空間では巨大な羽根を広げたリリスの首筋から血飛沫が噴き出し、月を紅く染めていく。リリスの目を破り出た初号機が雄叫びを上げ、黒き月は卵割を繰り返しはじけ飛ぶ。赤い光球が地表を流れ、弓なりに倒れたリリスの首が地表にもげ落ちる。初号機から引き抜かれたロンギヌスの槍が発光し、エヴァシリーズも次々地表に落下していく。
蒼白い光の中ではアダムとリリスの言葉が響き渡る。
「現実は、知らないところにある。夢は現実の中に・・・」
「そして、真実は心の中にある。」
「ヒトの心が、自分自身の形を造り出しているからね。」
「そして、新たなイメージがその人の心も形も変えていくわ。イメージが、 創造する力を、自分の未来を、時の流れを・・・造り出しているわ。」
「ただヒトは、自分自身の意志で動かなければ何も変わらない。」
「だから、見失った自分は、自分の力で取りもどすのよ。たとえ、自分の言葉を失っても・・・。他人の言葉に取り込まれても・・・。自らの心で自分自身をイメージできれば、誰もがヒトの形に戻れるわ。」
*
水が滴る音がする。
地表の一点を映していたはずの蒼光は波紋のように大きく広がり、世界全体を隅々まで照らし出していく。
シンジを包んでいた強烈な光が穏やかさを取り戻す。少年は翳していた左腕を静かに下ろす。自分が破壊したはずの鏡は既に無く、目の前には扉が閉まった窓、右手には開け放たれ星々が煌く窓がある。左手は青い地平が続く窓、後ろは引き込まれそうな深い闇を感じる。纏っていたはずの衣類は消え失せ、滴っていたはずの右腕の傷は癒えている。
「心配ないわよ。」
少年は正面を向いたまま、首を右に捻じる。
そこには宇宙空間で向き合う少女と初号機の姿がある。少女は全身から眩いばかりの輝きを放っている。初号機は目の光が消え、朽ち果てているようにみえる。
「全ての生命には復元しようをする力があるの。生きてこうとする心があるの。生きていこうとさえ思えば、どこだって天国になるわ。だって生きているんですもの」
その声は少女のものなのか、初号機のものなのか分らない。ただ、懐かしい響きが少年を包み込む。両者は少年の方に向き直ると、優しく励ますように声をかける。
「・・・・・幸せになるチャンスはどこにでもあるわ。太陽と、月と、地球が、ある限り・・・。大丈夫。」
少女と初号機がゆっくりと重なっていく。少女を手前に初号機を後ろに。そして、初号機と少女、少年が一直線に並んだ刹那、眩い光が窓を貫く。宇宙全体を覆わんばかりの明るさに少年は慌てて目を閉じる。
その時、左手から吹く風が自分の言葉を運んできたのを感じる。
「・・・幸せがどこにあるのか、まだ判らない。だけど、ココにいて、生まれてきてどうだったのかは、これからも考え続ける。だけど、それも当たり前のことに何度も気づくだけなんだ・・・。自分が自分でいるために・・・」
少年が再び目を開いた時、長い蒼髪を靡かせた初号機が暗闇の中ゆっくり遠ざかっていくのが見える。少年はただ、ただ、その光景を眺めている。
「さよなら・・・。母さん」
少年は一言、別れを告げる。
吹き込んだ風と声が共鳴している。
少年は顔を戻す。窓に嵌め込まれた木製の扉を見つめる。僅かに覗く隙間から微かに揺れる影を捉える。一歩手前に出て、扉の把手を握り締める。両腕に力を込めて押し開ける。扉が開け放たれる。 全裸で俯いている少女を睨みつけ、少年は今、窓辺から飛び立つ。