3rd Stage <Shine on you crazy diamond> |
それは不思議な光景だった。暗雲が立ち込める深い闇の中に空全体を覆わんばかり巨大な月が出ている。月から放出された蒼海を想起させる透明な光が荒れ果てた地表に焦点を結び、赤ワインを水に溶かしたような薄い紅色のハレーションがその蒼い逆円錐形を浮かび上がらせ、周囲に広がっている。二つの波長はゆっくり優しく揺れている。
地表には痩身の少年が横たわっている。蒼い光の中心に一人、そこからやや離れた所に一人。
蒼い光はワイシャツ姿で静かに眠っている少年とその周りを穏やかに映し出している。少年の近くには3つの鏡が少年を取り囲むように直立している。優しく包む蒼光によって鏡の中の少年は無限の地平に見守られているようかのように見える。
紅い光を浴びている少年は生まれたままの格好で眠っている。薄紫色に輝く少女に抱かれ眠っている。
ピチャン…
どこからか、水面が震える音がする。
蒼い少年がゆっくりと目を開ける。横たわったまま、ゆっくりと回りを見回す。右手に広がる蒼い海原、左手に迫る暗い海溝。首を少し持ち上げ、足元に限りない蒼が広がっているのを確かめる。
「気持ちいい」
少年はそう呟きながら、首をゆっくりと後へ回す。優しい眼差しを向けると、甘えるように話しかける。
「そう思わない?」
少年には鏡に誰かの姿が映っているらしい。少年は満足そうに頷くと、ゆっくり目を閉じる。そして、首を支点にくるりと身体を九の字に曲げると、全身の力を抜く。右手に握られたクロスがゆらゆら煌いている。
「あそこでは・・・イヤな事しかなかった気がする。」
誰もいない空間で少年は人に語りかける。鳶色の瞳にクロスの反射光が穏やかに銀蒼色に揺れ、動いている。
「だから、きっと逃げ出してもよかったんだ。でも、逃げたところにもいいことはなかった。だって・・・僕が、いないもの・・・。誰もいないのと同じだもの。」
訥々と傷ついた心を癒すかのような穏やかな響き。纏っていた鎧を脱ぎ去った全裸の少年の言葉が紡ぎ出される。
そして、顔を再び無機質な壁にむけ、にっこりと微笑む。
「そうだよね、綾波・・・」
ゆっくりとした時間の流れが溢れる光に溶け込み、少年は微笑みを浮かべながらまどろみに落ちようとする。
その瞬間、
時が動き始める。
「再びATフィールドが、君や他人をキズつけてもいいのかい?」
少年の足元の鏡から銀髪の少年が浮かび上がる。鏡の中の少年は横たわる少年を見下ろしながら、優しい口調で問いかける。
少年はその声に目を見開き、思わず立ち上がる。拳を握り締めると、力強い口調で答える。
「かまわない」
そう言い放つと、はっと我に返る。
口元を僅かに開きながらも真顔で見つめる少年。視線の先には銀髪の少年と蒼髪の少女がいる。
澄み切った青空の中、一人は渚カヲルと呼ばれた容姿をもち、もう一人は綾波レイと呼ばれた容姿をしている。二人とも瞳に紅色の光を宿しながら親しみに満ちた口元を湛え、少年の顔を真っ直ぐ見つめている。胸元から黄色いシャツをのぞかせたワイシャツ姿の細身の少年、鶯色の制服を身につけ胸元に赤いタイリボンのアクセントとなっている華奢な少女。
少年の表情が少しずつだが和らいでいく。
「・・・でも、僕の心の中にいる君達は何?」
少年は一呼吸おいた慎重さをもって問いかける。
その声を待っていたかのように鏡の中の少女が答える。
「希望なのよ。ヒトは互いに判りあえるかも知れない・・・ということの。」
鏡の中の少年が言葉を続ける。
「好きだ、という言葉とともにね。」
その声を聞き、茫然と立ち尽くす少年の姿。瞳は鏡を映しているが、意識は内に向けられている。
…カヲル君が、好きだっていってくれたんだ…僕のこと…
…初めて、初めて人から好きだって、云われたんだ…
…僕に似てたんだ。綾波にも…
…好きだったんだ…生き残るならカヲル君の方だったんだ。僕なんかよりずっと彼の方が、いい人だったのに…
…カヲル君が生き残るべきだったんだ…
少年の脳裡には自らの手でカヲルを扼殺した夜の湖畔で吐露した自分の気持ちが甦っていた。
狂おしい程の悔恨がもたらす心を裂き血を滴らせる痛み。理由をつけて納得させようとしても溢れ出す涙。綾波が消えた時にも感じた無力感、喪失感。
記憶の箱にしまったはずの二人との別れの光景が少年の瞳に新しい光を浮かばせる。
「綾波・・・カヲル君・・・」
少年は潤んだ目で鏡の中の二人に語りかける。口元は溢れる喜びにガクガク震え、次の言葉を待ちうけている。
「あっ・・・あの・・・」
…僕の中の希望…好きという気持ち…
…もう手放したくない…
少年から希望、好きという想いが次々と溢れ出してくる。
鏡の中に人々が次から次へと沸いてくる。景色が大地、森、道路、人ごみへと変わっていく。
「えっ!」
少年は次々変化する光景を目の辺りにして戸惑いの表情を浮かべる。鏡の中の少年、少女は何事もないような視線を少年に送るのみ。
…どうして…
少年は自ら問いかける。
二人が表情を変えることなく話し始める。
「それは、私たちが形を持たないから。私たちはリリスだから」
「そして、アダムでもある」
「そして、それは誰の中にもいる。私たちとともに」
…リリス…
少年は遥か以前に聞いた覚えのある言葉を思い返した。
ミサトが自分をエヴァに載せるため移動していた車中での会話。
「シンジ君・・・私たち人間はね、アダムと同じ、リリスと呼ばれる生命体の源から生まれた、18番目の使徒なのよ。他の使徒たちは別の可能性だったの。人の形を捨てた人類の・・・ただ、お互いを拒絶するしかなかった悲しい存在だったけどね。同じ人間同士も・・・」
…綾波が…リリス…
少年は目線を足元に落とす。そして何やらぶつぶつ呟いている。
顔を上げると、突然、力いっぱい振り返り、後ろの鏡に叫ぶ。
「じゃあ、やっぱり、君が本当の綾波なんだね。そうだよね!
ねぇ、笑ってないで何かいってよ!」
「それは、あなたの影。母親の優しさを求めるあなた自身」
少年の背中が少女の声に震える。
手は何のためにあるの・・・
鏡の裏側から呟きが聞える。
「うわぁぁぁぁぁぁーーーーーうわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」
ガラスが砕け散る音が響き渡る。