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両国駅
錦糸町
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両国駅から江戸東京博物館周辺は、江戸時代に幕府の御米蔵、竹蔵があり、荷役の舟が出入りしていた。天和(1681)年間以降は札差業も集まってきた。明治時代は陸軍用地となり、明治37年に両国停車場として開設された。駅舎は昭和5年建設のものです。
第6回オフ会開催地
初代若乃花手形
両国駅の周辺は相撲関係のオブジェが多く、その一つに力士の手形があります。右下は初代若乃花の手形です。
旧安田庭園
旧安田庭園(大名庭園跡) 元禄4年(1701)、下野足利藩本庄因幡守宗資が幕府から拝領した。その後、丹後宮津藩主松平伯耆守の下屋敷、安政年間隅田川の水を引いた潮入回遊式庭園として作園される。規模は大きくないが江戸名園である。明治になって安田善次郎の所有となり、大正11年(1922)に東京市に寄贈される。
藩邸の社
駒止稲荷神社【旧安田庭園】 家光公の時代、隅田川が氾濫した時、江東の地を視察を命じられた旗本阿部豊後守は名馬を伴い隅田川の濁流を渡りました。名馬を止めたのがこの場所であり、駒止稲荷神社、駒止石、駒止井戸、駒止銀杏が残っています。この視察の成功により、豊後守は一万石を賜り、大名に昇進しました。
墨田区横網
国技館
総武線両国駅北側に昭和60年、蔵前国技館から両国国技館に移転完成した。日本相撲協会の本拠地。
野見宿禰神社
相撲の神と言われる野見宿禰を祀る神社。初代高砂親方の尽力で明治17年(1884)に、もとの陸奥弘前藩津軽越中守上屋敷跡に建立された。境内には歴代横綱の石碑が2基並んでいる。
墨田区亀沢2-8-10
回向院力塚
回向院(明暦の大火の犠牲者を埋葬) 両国の回向院は明暦の大火(1657)の犠牲者埋葬のために建てられたのがその始まりである。その後も地震・津波・海難事故,あるいは牢死・刑死者さらには水子・無縁仏などを葬った寺である。
江戸勧進相撲は年に2場所で,興行日数は,安永7年(1778)以降,1場所晴天10日間(それ以前は8日間)。興行場所は深川八幡,蔵前八幡,本所回向院,芝神明など,いろいろな寺社の境内で行われたが,天保4年(1833)からは回向院が定場所となった。
力塚:昭和11年に相撲協会が、歴代年寄慰霊のために建立した。また、回向院は天保4年(1833)頃から江戸勧進相撲の開催地となり、発祥地として知られています。
第6回オフ会開催地
両国から清澄庭園順路:周辺の名所・旧跡(4時間行程)
両国橋
明暦の大火(1657)以降、過密化した江戸の都市拡張のために、寛文元年(1661)に竣工、本所深川地域の開発が進められました。当初、大橋とも言われたが、千住大橋との混同をさけ、両国橋と言われるようになった。当初、隅田川は武蔵国と下総国の境でした。現在の橋は昭和7年の竣工。
東京都慰霊堂(関東大震災被服廠跡)
両国駅北側は江戸時代幕府の木材蔵、竹蔵があった。明治政府が接収し、陸軍用地となり、陸軍被服廠が作られました。東京市が被服廠跡を公園予定地として買い取っり、その翌年1923年9月1日に関東大震災が起こり、この場所で38、000名が死亡しました。今でも、9月1日に盛大に法要が営まれています。
北斎通り(葛飾北斎生誕地)
1760(宝暦10)年 江戸本所割下水(北斎通り)に生まれる(9月23日)幼名時太郎、後に鉄蔵と改名する。
吉良邸跡
赤穂義士の討ち入りがあった吉良上野介義央の上屋敷跡です。その昔、吉良邸は松坂町1、2丁目(現両国2、3丁目)のうち、約8,400平方メートルの広大な屋敷でした。周囲の石壁は江戸時代における高家の格式をあらわすなまこべい長屋門を模した造りで、園内には吉良邸にあった井戸や稲荷社などがあり、当時を思い浮かべることが出来ます。
一之橋
赤穂浪士は泉岳寺に向かうとき、一之橋(一つ目橋)→御船藏→万年橋→永大橋と進みました。
御船蔵跡
幕府の御用舟を格納する御船藏が設けられていました、三代将軍家光の時代巨大な御座船「安宅丸」も係留されていてました。
芭蕉記念館
芭蕉がまだ桃青(とうせい)と号していた頃の庵で、ここに芭蕉の株を植えたことから俳号を”芭蕉”に改めたと伝えられている。「古池や・・・・・・」で有名な古池もここにあったそうだ。芭蕉記念館は祝日を除く月曜日が休館で10時から17時まで開いている。芭蕉の日常生活を知ることの出来る貴重な資料が展示してあります。
芭蕉庵展望庭園
清洲橋の見晴らしが素晴らしい。
芭蕉稲荷
「奥の細道」で有名な松尾芭蕉が深川に移り住んだのは、延宝八年(1680)であった。芭蕉庵は、芭蕉没後に消え去りその場所も長く行方不明になっていたが、大正六年(1917)大津波のあとに芭蕉遺愛のものと思われる「石の蛙」が見つかった。これを奉ったのが芭蕉稲荷神社である。
小名木川
隅田川と中川を結ぶ。利根川沿いの河岸や東北地方の港からの物資を運ぶ、水運上の大動脈だった。
清洲橋
関東大震災後1928(昭和3)年に完成、ドイツ、ライン川のケルン橋をモデルにしています。清澄と中洲を結ぶことから、清洲橋と名付けられました。
霊巖寺
松平定信の墓
老中、8代将軍吉宗の孫、寛政の改革の推進者、白河藩主となり周辺の地名は白河と言います。
江戸六地蔵
正徳2年(1712)地蔵坊正元が10年がかりで江戸中からの浄財よって、旅人と江戸市民の安全を祈願して各街道口に建立した。銅造地蔵菩薩座像、六道(地獄道、飢餓道、畜生道、修羅道、人間道、天上道)をさまよう人々を救うのが地蔵菩薩です。
第1番 品川寺 品川:東海道
第2番 東禅寺 山谷:奥州街道
第3番 太宗寺 新宿:甲州街道
第4番 真性寺 巣鴨:中山道
第5番 霊巖寺 深川:千葉街道
第6番 永代寺(廃寺) 深川:千葉街道
2002/09/09