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“徳島の歴史スポット大滝山”

1 持明院大滝山建治寺(以下「持明院」という。)跡周辺に多い寺社
 蜂須賀家政氏の阿波入国に伴い、持明院はじめ多くの寺社などが勝瑞や旧領地から眉山の山中、山麓、および山下に移転され、大滝山の周辺に門前町が形成されたのです。
 最初の徳島藩の石高は 、17.5万石でありましたが、大坂攻めの戦功により淡路の国を加増され、阿波と淡路で25.7万石の大名へと成長しました。実際には藍・たばこ・塩など阿波商人が得た利益により、上納される運上銀  (注1) や冥加銀 (注2) を合算すると、40数万石になるともいわれます。徳島藩は大城下町であったのです。
(注1) 運上銀(うんじょうぎん)は金銭で納付が行われる税金のことです。
(注2) 冥加銀(みょうがぎん)は営業などの免許の代償とし、藩に対して支払った租税のことです。

2 暴れ川「四国三郎」が生んだ徳島藩の藍作り
 藍作りは稲作に代わり、徳島を代表する産業になりましたが、その背景に吉野川の存在があります。吉野川は日本を代表する暴れ川で「四国三郎」とも呼ばれ、その流域では毎年、洪水で大きな被害がもたらされました。そのため、人々は稲作をあきらめるようになり、いつしか一年生で台風襲来前に収穫できる藍が栽培されるようになったのです。 幸いなことに洪水で運ばれる客土(置き土)は、肥沃(肥えた)な土地を好む藍の栽培に好都合でもあったので、大きな産業として育ったのでした。江戸時代から明治中期にかけ徳島の藍商人は、藩の強力な後ろ盾もあり、全国の市場をほぼ独占していました。吉野川流域一帯の藍の作付面積が拡大され、阿波藍は外国産の藍を差別化し、明治初年の徳島市は全国第八位の都市として栄えたのです。

3 蜂須賀家と持明院の関係 @藩主祈祷寺 A幕府巡見使宿泊所
 持明院の創建は不詳で、三好氏の城下の勝瑞に建立されましたが、蜂須賀家政氏の阿波入国に伴い、眉山山麓に移転しました。江戸時代には概ね100石の寺領(寺の所有する領地)を有し、寺院経営は安定していました。 しかし、幕末には多くの寺院を維持しており、経費も膨れあがり、経済的に困窮していました。そして、明治維新の際、蜂須賀家が公式祭祀を神式に改めたことから、藩の保護もなくなりました。さらには、寺領も廃止され、明治4年には廃寺となりました。 封建権力に依存した寺院で、檀家を持たなかったことが、廃寺となる一因でありました。また、神仏分離の処置では祇園社が、八坂神社と改称されたことに見られるように、明治維新で旧秩序が崩壊しております。このことから、持明院は一挙に経済的基盤を失い、廃寺となったのです。しかし、仁王門、本堂(薬師堂)、および三重塔は、昭和20年7月4日に空襲で焼失するまで存続しておりました。

4 歴史を身近に感じられる大滝山の構築物
  大滝山の滝薬師「おやくっさん」の界隈は、江戸時代に門前町として栄えました。 滝薬師の裏に富豪屋敷跡もあり、ここは白い漆喰で塗られた煉瓦造りの塀が昔のまま残っており、その塀に沿って石段を登れば、鉱山の坑口と鉱石採石場にたどり着きます。過去には紅簾石・ルチル「アクセサリーに加工」・ザクロ石などの採石が行われ、大滝山が繁栄する一因をなしたとされています。 一方、八坂神社の参道には、京都祇園を形どった「ぎをんはし(橋の名前)」、高級料亭(三宜亭・白糸茶屋は大正年間まで存続)、および小料理屋(梅屋、春日野、玉水など)があったと伝えられております。残念なことに、空襲により建物などの構築物だけを残し、その全ては焼失しました。 滝薬師の近くでは「滝の焼き餅」が売られ、店は今も栄えています。大滝山の歴史を今に伝える一品で、私にとっても、子供の頃の懐かしいお菓子であります。

5 「滝の焼き餅」の由来
  徳島市大滝山の登山口(眉山の麓)には、名物の滝の焼き餅屋が並んでいます。眉山の湧き水の錦竜水(きんりょうすい)で作られた焼き餅で、通称「滝のおやき」と呼ばれています。 その由来は伝えられるところ持明院の僧侶が江戸時代に茶菓子とし、作ったのが始まりです。1585年(天正13年)には徳島城築城を祝い、蜂須賀家政公に献上されたこともあります。

6 意外と風格のある不思議な水路
 この水路は、こんこんと流れ出てくる湧水を処理するためのものです。大滝山の麓で集められた湧水は、「錦竜水の水くみ場」付近から、まず最初は縦1m× 横1m程度の青石造りの地下水路へと伝わり、そこを通って最後は、春日橋のたもとにある吐き出し口から、新町川へと流されておりました。 また、地上の水路は「錦竜水の水くみ場」付近から地下水路と同じ方向へ幅0.6m深さ0.3m程度の青石造りの浅い水路で、側溝のようなものがありました。これが意外と風格があり、この地域の風景に溶け込んでいたように思います。この地上水路は内部で自然に湧き出した湧水のみを処理するための水路で、藻の下にはカワニナなどの水辺の生き物が生息し、時期がくれば蛍も舞っておりました。この地上水路で湧き出た水は、最後は地下水路と合流していたので、水の入り口はない出口のみがあるという不思議な水路だったのです。

7 蜂須賀家政公のプロフ
(1) 性格
 小六正勝の長男で正勝に負けずとも劣らぬ、非常に個性あふれる人物です。
(2) 出生地
 尾張の国、現在の愛知県江南市宮後(こうなんし みやうしろ)です。
(3) 生年
 永禄元年、1558年に生まれました。
(4) 経歴
ア 戦国武将としての育成
 合戦に明け暮れる激動の時代に幼少期を過ごした家政は、この地で父・正勝から、世を生き抜くための様々な教えを受けました。豊臣秀吉の軍勢のもと様々な合戦に参加し、徐々に戦国武将として成長していきました。
イ 大名蜂須賀家政の誕生
 四国攻めで蜂須賀親子は、讃岐の国、屋島から四国に攻め入り、激戦地となった阿波の国を目指しました。この時、家政は父・正勝とは別の部隊を率いて各地を転戦し、鳴門の木津城攻めなどで抜群の手柄を立てました。四国征伐の後、秀吉は父・正勝に阿波の国を与えようとしましたが、正勝は高齢を理由に辞退しました。変わりに息子・家政に阿波一国17.5万石が与えられました。阿波の太守(国持ち大名)・蜂須賀家政の誕生です。家政27歳でした。そして、家政の阿波入国の翌年、父・正勝がまるで息子の成長を見届けたかのように、この世を去りました。
ウ 築城・都市計画
 家政は阿波入国の翌年に、徳島城を築城しました。城を築いた家政は、同時に城下を整備し、武家屋敷が並ぶ出来島や寺島、商人が住む内町や新町といった、今の徳島市中心部のほとんどの街を作りました。
エ 産業の振興
 産業の振興にも熱心で、藍や塩などにも力を入れ、徳島藩の大きな財源となる特産品を生み出します。家政は息子至鎮(よししげ)が35歳で亡くなった後も、孫で2代藩主となった忠英(ただてる)の、後見として力をふるいます。阿波入国から81歳でなくなるまで、実に50年以上に渡って、徳島藩を表から時には裏から支えた家政は、まさに徳島の礎を築いた人物と言えるでしょう。

謝辞
1 眉山町大滝山の歴史については、「夫婦で山歩き(釋護法、釋信行)」さんにご教示いただきました。
2 大滝山の採石鉱石名については、参考文献 徳島県立博物館発行「企画展 ミネラルズ」から引用です。
3 蜂須賀家政公のプロフは、徳島城博物館の解説から引用です。
4 滝の焼き餅レシピは、Webページからのメモを参考にさせていただきました。


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滝の焼き餅作りに挑戦しょう
 一度挑戦しては如何ですか。結果を[ 掲示板 ]までお知らせください。このホームページで紹介させていただきます。
滝の焼き餅の作り方 ⇒ [ 滝の焼き餅の印象 ]
平成24年01月01日 
文責人
文責人プロフ
1 ニックネーム
 Yちゃん
2 性別
 男
3 誕生月
 8月
4 経歴
 徳島県出生・在住で、9年間は単身赴任しました。
5 性格
 良いです。小学校4年の時、雨に濡れた子犬を拾って、飼っていました。また、毎年年末には施設に寄付をしてきました。
6 趣味
(1) 架空小型映画の制作
 「マーチをBGMにした架空映像」を空想的に考えるのが楽しい。
(2) 音楽鑑賞
 「You Tube」からクラシック・マーチを聞いて毎日元気をもらっています。私はEU圏のマーチが好きです。
7 嗜好
(1) タバコは20歳から吸い始めて60歳退職と同時に禁煙しました。以後、一本も吸っておりません。これまでに受動喫煙で多くの皆様方に、ご迷惑をおかけしたことを反省します。
(2) アルコールは飲んでも苦しくなるので、旨いと思いません。私は体質に合わないのでしょう。
8 余談
 徳島市の水道水は、最近カルキ臭い水になりましたね。お茶に沸かしても匂うようになりました。<`ヘ´>
引用先の皆様
 当該ホームページ作成に当たっては、有用な情報の提供ありがとうございます。可能な限り正確な引用に努めたつもりですが、もし不都合がありましたら、掲示板までご連絡ください。訂正または削除いたします。
平成24年01月01日 
文責人
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