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 20世紀は「開発の時代」と言われ、「自然保護か開発か」といった二者択一を迫る単純な対立が続いた時代だった。そんな時代は、「自然のみを残す」ことに重点が置かれ、残念ながら自然と人間、自然と文化を対立的にとらえる不幸な出来事が数多くあった。21世紀は「環境の時代」と言われ「共生」「持続的な発展」「生物多様性」といった言葉がキーワードになった。2000年以降画期的な変化は、自然と人間、自然と文化は対立するものではなく、むしろ表裏一体の関係にあることが改めて認識されてきた点である。このことを過去の事例を含めて考えてみたい。
20世紀・「自然と文化」対立事例1・・・「伝統文化保存か自然保護か」
 最後の鷹匠と呼ばれた秋田県羽後町上仙道桧山の武田宇市郎さん。鷹匠は、野生のクマタカを調教し、野ウサギやテン、タヌキなど獣類の狩りをしてきた伝統猟法。鉄砲も買えない貧しい山間僻地の農民は、狩りの上手なクマタカに目をつけ、相当古い時代に独自に生み出された伝統文化と言われている。その稀有の伝統文化を守ろうと昭和52年「鷹匠を育てる会」が結成された。その後、後継者も誕生したが、「クマタカの捕獲が認められなければ、伝統の狩猟習俗も途絶えてしまう」と、昭和57年、環境庁にクマタカの「捕獲許可願」を出す。クマタカは勝手に捕獲することのできない国の保護鳥のためである。

 当時のマスコミは「伝統文化保存か自然保護か」という見出しで大々的に報道された。しかし、「鷹匠を育てる会」側の論理と環境庁や一部の自然保護団体の意識の隔離は小さくなかった。さらに文化庁に民俗文化財の指定を要望しても容れられず、環境庁の捕獲許可も下りぬまま、昭和59年1月から特殊鳥類に指定する法改正によって、海外からの輸入も禁じられ、鷹匠と会の切なる願いは完全に閉ざされてしまった。

 私は、野沢博美さんの写真集「鷹匠」を見るたびに、これこそ「自然と人間と文化」が調和した世界はないなと思う。それだけに、秋田から鷹匠文化の灯が消えたことは残念でならない。結果論ではあるが、「人間不在」「文化不在」の自然保護が生んだ20世紀の代表的な事例と言えるだろう。
20世紀・「自然と人間と文化」対立事例2・・・「森林生態系保護地域」=入山禁止
 1987年、白神山地・青秋林道の建設が中止となり「保護か開発か」という論争に終止符が打たれた。これでメデタシ、メデタシと思われたが、1988年、林野庁は白神山地や玉川源流部、栗駒山・栃ケ森山周辺など全国12ヶ所を「森林生態系保護地域」に設定、「原則入山禁止」にして保護する考え方を打ち出した。当時私は人間を排除、文化を排除して「森のみを残す」といった安易な考え方に、大きな違和感を感じた。地元の新聞に「入山禁止に意義あり」との意見を書いたり、東北の釣りマガシン「自然倶楽部」に、釣りとはおよそ無縁と思われていた「森林生態系保護地域に関する一考察」という馬鹿げた大論文を自然倶楽部編集部に無理にお願いをして掲載してもらったりした。この頃から私たちの「自然と人間と文化を考える」活動が始まった。
 千古の歴史を刻む仙北街道・胆沢町起点に掲げられた森林生態系保護地域の看板

 1990年、秋田県東成瀬村北ノ俣沢と岩手県胆沢町小出川にまたがる栗駒山・栃ケ森山周辺が森林生態系保護地域に設定された。しかし、その核心部・原生林地帯のど真ん中に秋田藩と仙台藩を結ぶ千年の歴史を持つ古道・仙北街道が残されていた。東成瀬村と胆沢町の住民が、その古道を復活させようと藪の刈り払いを行った。当然「原則入山禁止」区域のため、営林署から刈り払いのストップをかけられた。千年の古道があることを確認するために旧営林署の図面で確認したところ、仙北街道がはっきり記されていることがわかり、やっと許可が出たのだ。
 天保年間に建立された山神の石碑。ブナの原生林の中を走る仙北街道沿いにひっそり佇んでいる。  仙北街道を復活させた東成瀬村「仙北道を考える会」の皆さん。

 今では、東成瀬村の「仙北道を考える会」と胆沢町の「仙北街道を考える会」が古道を刈り払い、古道沿いの地名や旧跡に標柱を設置、歴史的な仙北街道を往来して両町村が交流している。結果的には「自然と人間と文化」守る方向で決着したが、森林生態系保護地域の設定と「入山禁止」措置は、地域の歴史と文化を無視したものであったことは大いに反省すべき点であろう。

 後に山の情報誌「岳人」(2000年8月号)にも地元の某ライターが仙北街道について紹介したが、その記事を見て愕然とした。「・・・昨今の自然掠奪は昔と質と量を変え、見境のないところに問題がある。もちろん今、小出川源流は禁漁となっているが、渓流マニアの悪しき痕跡ははっきりと見てとれる」と書いているではないか。「禁漁」などということは聞いたこともないので、早速岩手県に確認したところ、小出川源流部は漁業権の及ばない地域で「禁漁」の措置はしていないとの回答だった。こうしたありもしないことを書き、山岳渓流釣り愛好家たちを一方的に誤解・排除しようとするライターがいることは残念でならない。
20世紀・「自然と人間と文化」対立事例3・・・2000年マタギ小屋撤去騒動
 1989年、和賀山塊・マタギ小屋。深山幽谷に残された秋田県最後のマタギ小屋に感激。当時は、まだしっかりした合掌造りの小屋だった。もちろんゴミは皆無だった。  1999年10月、屋根は穴だらけになり、いつ朽ち果ててもおかしくない危機的な状況に。これを見かねた瀬畑雄三さんら26名が屋根の葺き替えを行った。
 地元の自然愛好団体「和賀山塊を愛する会」の鬼川理事長は、「もともと違法に建てられた小屋であり、関係者は法律を守ってほしい。また、小屋の利用者がごみを捨て、自然を荒らしていくのも大きな問題だ」とマタギ小屋の撤去を求めた。前述の某ライターも「固定的な建物があれば、グループで入山しゴミを散らかす恐れもある。小屋の撤去は妥当」とのコメントをマスコミに伝えた。

 私は、この問題にすぐに反応した。なぜなら、これこそ「自然と人間と文化を考える」主旨に反する出来事だったからである。マタギ文化は確かに滅び行く文化であるが、県内に残る最後のマタギ小屋であり、何とかして形だけでも残したいと念願していた。地元の新聞社からコメントを求められた時も「小屋は、マタギたちの足跡をしみじみと感じることができる遺産であり、ぜひ残してほしい」と訴えた。

 ここでいつも問題になるのが、白神山地の入山規制問題と同様、こうした自然保護を標榜する人たちのオーバーユースという指摘である。しかし、このマタギ小屋がどんな場所にあるのか。小屋を建造した仙北マタギたちは山越えルートを利用しているが、現役のマタギでさえ、この小屋に達するには7時間余もかかる。我が会が初めてこのルート歩いた時には何と8時間半もかかった。さすがの中村会長もこの険しい道には驚きを隠さず、帰りは沢を下るから、迎えにきてくれと懇願したほどだった。マタギルートは、それほど困難なルートだった。オーバーユースを指摘すれば、マタギ小屋を見たこともない多くの人には、なぜか簡単に受け入れられてしまう。この誤解・矛盾は、近代化の中で、現代人が自然から遠く離れてしまったのが大きな原因であるように思う。事実、県内でもこの小屋を知る者は、ほとんどいなかった。詳細は仙北マタギの渓をゆくを参照。
 2000年4月「マタギ小屋を保存する会」(代表瀬畑雄三)を結成、マタギ小屋保存を求める署名運動を開始した。2000年7月、新潟県村上市で開催された「第11回ブナ林と狩人の会・マタギサミットin三面」に、瀬畑さん、戸堀マタギとともに初めて参加。全国のマタギ仲間との連帯の輪で保存運動が盛り上がった。以降、毎年全国マタギサミットへ参加させてもらうキッカケともなった。

 ちなみにマスコミでは、「マタギ文化の継承」か、「違法建築ゆえ撤去」か(朝日新聞秋田版)、「森林管理署・自然愛好団体×マタギ・釣り愛好家」(読売新聞秋田版)といった図式で報道された。
 私が最も驚いたのは、東北自然保護団体連絡会議のHP管理人から「和賀山塊・マタギ小屋の保存」について取り上げたいので「2000年東北自然保護のつどい」に参加してほしいとのメールをいただいたことである。これには心底驚いた。というのも白神山地の入山禁止問題を巡って、山岳渓流釣り愛好家と秋田の自然保護団体との考え方には、依然大きな隔たりがあったからである。

 秋田・白神山地のブナ原生林を守る会のO氏は、会報で次のように述べている。「現在の白神山地の荒れの大半はこの渓流釣りの人々による、踏み荒らし、大量のゴミ投棄によるものです。・・・白神山地のコア地域への入山原則禁止に反対する人に、渓流釣りが多いのは、考えさせられます。要するに彼らは、イワナをとりたいだけに過ぎません。イワナをとりたいから、コア地域に自由に入れろでは、わがままもいいかげんにしろ、と一喝したくもなります」(「白神山地のブナ原生林を守る会会報」27号)・・・山岳渓流釣り愛好家たちに対して偏見とも言えるこうした批判は、我々にとっては屈辱的とも言えるものだった。後に知ったことだが、このO氏は、白神山地の核心部を歩いたことのない人物だった。

 2000年「東北自然保護のつどい」は、21世紀の自然保護運動のあり方を大転換した画期的な大会だった。つまり人間排除、文化排除の自然保護運動に終止符を打ち、「自然と人間と文化」を共に守る運動に大転換したのである。そうした流れの中で私たちが提案した「和賀山塊・マタギ小屋の保存と民俗文化の継承を」という大会アピール文が採択されるに至った。

 「森林管理署・自然愛好団体×マタギ・釣り愛好家」といった図式が「森林管理署・自然愛好団体×マタギ・釣り愛好家・東北自然保護団体」へと対立の図式が大きく変わった。これで、マタギ小屋の強制撤去は完全に消えることとなった。「自然と人間と文化を考える」運動は、十数年を経て、やっと認められる時代になったのだ。我々にとっては、隔世の感を抱く歴史的な出来事だった。

 白神山地の入山規制問題に関する名著は「白神山地の入山規制を考える」(井上孝夫著、緑風出版、2200円+税)が労作であり、21世紀の自然保護はどうあるべきかを考えさせられる。項目だけを列挙すれば、自然保護と入山規制問題、世界遺産の意味、白神山地世界遺産地域管理計画の問題点、共生の論理、入山規制問題の帰結、自然保護はどうあるべきか・・・興味深い内容がギッシリ詰まっている。ぜひご一読をお勧めしたい。
白神山地・青秋林道中止秘話
 NHKプロジェクトX「マタギの森の総力戦」が放映されたが、ほとんどの人は、この放映に「感動した」と口々に語った。しかし、青秋林道がなぜ中止になったのか、その「保護か開発か」で揺れた白神山地保護運動の表と裏を知る人間は、感動どころか、真実を伝えるはずの放映に大きな疑問を持った。

 上の図面を見ていただきたい。これは青秋林道のルートが変更された後の図面である。ルートは赤の点線だが、鯵ヶ沢町・赤石川源流部を通るルートになっている。ところが、当初は、秋田県藤里町粕毛川源流部を通るルートだった。秋田県の自然保護団体は、粕毛川流域のブナ林と粕毛川の水を守るため藤里町を通らないでほしいと要望した。その結果、1985年、青森県赤石川源流部を通るルートに変更になったのだ。当然のことながら、青森県の自然保護団体と赤石川流域住民がこれに怒り、白神山地保護運動が意外な盛り上がりをみせる、という皮肉な結果を生んだ。(もう一つは、1983年、野鳥博士・泉祐一さんが、国の天然記念物・クマゲラを発見、クマゲラは白神保護運動のシンボルとなったこと)。青秋林道が県境稜線に達し、青森県側の保安林解除に対して、赤石川流域住民が1万3千余通の意義意見書を提出。これが決定打となって白神山地の青秋林道は中止へと追い込まれたのである。

 プロジェクトXの誤りは、この事実を完全に無視し、主人公となるべき人物が青森ではなく秋田であったこと、さらには一人の人生ドラマに終始した点であった。白神山地の入山規制を巡って、秋田と青森が深刻な対立をしてきた歴史は、実は秋田県の自然保護団体のエゴに端を発していたのだ。残念ながら、この裏話を知る者が少ないのは残念だ。真実はどうあれ「災い転じて福となす」結果になったことは幸いであった。ちなみに世界自然遺産になった途端、入山禁止に賛成したのが秋田の自然保護団体であり、「自然と人間と文化」を守る立場から「入山禁止反対」を主張したのが青森の自然保護団体であった。

 2000年東北の自然保護のつどいで決議された「大会決議−白神2000プラン」では、「世界遺産地域を含め白神山地全体を見通した管理計画とし、自然・人間・文化を一つに考えた管理計画にすること」「世界遺産地域の管理について…地域住民や自然保護団体など、白神山地に実際に関わってきた人たちを加えた話し合いによって進めること」など6項目が決議されたのも当然の帰結であったと、今改めて思う。

 「21世紀の展望−自然と人間、その現状と行方」と題して哲学者・内山 節氏の基調講演・・・白神山地入山禁止問題は「白神を交換できない」地域住民や白神に関わってきたきた人たちを中心に考えるべきである。世界自然遺産だからといって、世界統一の自然保護などありえないと述べた点が特にが印象に残った。

 詳細はWeb東奥・企画/世界遺産白神山地/概要「白神山地はなぜ守られたか」を参照願いたい。

 20002.12.28 続く・・・

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