胆沢川1 胆沢川2 胆沢川3 山釣りの世界TOP

 二日目の朝。ブナの葉とテントを打つ雨の音で眼が覚める。流れは、昨日より増え、次第に濁りが入ってきた。濃いガスが次第に渓を包み込む。朝食を済ませ、雨が止むのを待つも一向に止む気配はなかった。焚き火を囲み、遡行図を眺めてはコーヒーを飲む。シビレを切らして出発したのは、何と10時を過ぎていた。
 岸壁を滴り落ちる名水は、さらに激しさを増した。テン場から標高1300mの焼石沼まで3.5キロ。テン場出発が遅かったので、途中で遊んでいたのでは到底辿り着けない。イワナ釣りより目的の沼を目指してひたすら歩くことにする。
 700mほど上ると、右手から小沢が流入している。
 1キロほど歩くと二又(左の写真)。左が本流、右が枝沢だ。さらに進むと渓は、次第に落差が増してくる。昨日、仲間が9寸ほどのイワナを数尾釣り上げた場所を過ぎると、イワナの好ポイントが連続している。釣りたい気持ちをグッと抑えてひたすら源流をめざす。
 白い瀑布が逆巻く急登のゴーロ。高度をグングン稼ぐ。エジプトから二年振りに帰国した篤史君は、1時間も歩くと限界に達した。足元が明らかにフラついている。エジプトではほとんど雨が降らない。ところが連日の雨と激流が続く日本独特の渓流に、相当体力を奪われたらしい。
 標高1050m付近、急登のゴーロを過ぎ、右にカーブした地点から源流調査開始。焼石岳の池塘湿原群から流れ出る水は、意外に冷たく太い。
 渓には、赤トンボ(アキアカネ)が群れをなして飛んでいた。夏の初めに羽化した赤トンボは、夏の暑さに弱い。羽化するとすぐ、涼しい源流へ飛び夏を過ごす。涼風が吹く秋になると、体が真っ赤になり、何千匹もの大きな集団となって平地の水田に戻ってくる。7月ともなれば、さっぱりアタリのない釣り人を馬鹿にするかのように竿に止まられたこと数知れず。ともあれ、こうした渓を飛び交う赤トンボこそ、夏の源流釣りの風物詩ともいえる。当然、夏の源流釣りでは定番のエサとなる。
 トンボをエサにイワナを釣る中村会長。エサの中でもトンボ釣りは、毛鉤と同じでイワナが水面に浮いてくるのが見える。時には、水面にジャンプし、反転してからエサを咥えたりするのでスリル満天。ミミズや川虫のように沈める釣法と違って一際オモシロイ。トンボを捕まえるには、川虫同様、折りたたみ式の川虫捕り兼タモ網が便利だ。捕まえたトンボは、種モミ用の網に入れるとよい。その際、トンボが弱らないようにフキの葉を入れることを忘れずに。
 トンボで釣れた胆沢川源流のイワナ。頭部から背中にかけてサビついたように黒っぽく、腹部の鮮やかな柿色が印象的な個体だ。側線より下の斑点は橙色で、典型的なニッコウイワナだ。
 雨は一向に止む気配がなく、断続的に激しく降り続いた。四囲の森、山々は濃いガスに包まれ、現在地を確認するのが難しい状態だった。それがために、とんでもない湿原に迷い込んでしまった。
 ミヤマシシウド・・・シシウドの高山型。亜高山帯のオオカサモチに似ているが、茎が分岐し、葉は大きな複葉となっているので簡単に見分けられる。高さは2mにも達する大形の多年草。  クガイソウ・・・別名トラの尻尾のように見えることからトラノオとも呼ばれている。紫の小花を穂状につけ、下から上へと咲いていく。
 右手に大きなガレ場が見える地点で沢は二手に分かれている。とにかく水量の多い方を辿れば、焼石沼に辿り着くだろうと判断。それが左手から流れ込む藪沢だった。幅は狭いが水量は驚くほど多い。長谷川副会長は、仕掛けの全長がわずか1mほどの極端なチョウチン仕掛けで藪沢のイワナを釣る。イワナは確かにいたが、サイズに不満が残った。
 藪沢を過ぎると、いよいよ沼かと思われたが、広大な湿原だった。上からは容赦なく雨が降り注ぎ、四囲の山々はぶ厚いガスに隠れて何も見えなかった。もし晴れ上がっていたならば、針路が間違っていたことがわかったはずだが・・・。ひたすら、藪を掻き分け、田んぼの中を流れる小川のような流れをどこまでも上った。
 湿原には、ハクサンチドリ、ヤマブキショウマ、イワイチョウ、ミヤマカラマツなどの花が咲いていた。既に花は終わっていたが、ミズバショウやリュウキンカの大きな葉の群れが目立った。
 湿原を越えると小川から沢のような雰囲気に変わる。標高およそ1200m地点。ちょっとした淀みにトンボを浮かべると、水面が大きく割れた。極端なチョウチン仕掛けの竿は、一気に流れの中に吸い込まれるように弧を描き、竿先がブルブル震えた。抜き挙げると、丸々と太ったイワナに全員が釘付けとなった。やっぱりいたのだ。尺には届かなかったが、29センチ。白い斑点が一際鮮明なニッコウイワナだ。魚体の太さに比べて頭は小さい。明らかに成長の早さを物語る魚体だ。それだけに幻の沼に生息するイワナを釣ってみたいとの衝動が大きくなる瞬間だった。
 先頭を歩いていたら、細流の石の裏から尺物のイワナが突然飛び跳ねた。標高1200mを越える細い流れにも、イワナがたくましく生きていることに嬉しさを隠し切れなかった。藪に覆われた小沢をひたすら登ったが、行けども行けども沼らしきものはなく、湿原と蛇行する藪沢だけだった。
 時計の針は容赦なく進んだ。ついに諦めざるを得ない。この時、針路を間違っているとは露ほどにも思っていなかった。それだけに、沼が埋まって湿原に変わったのではないかと心底思った。幻の沼に生息するイワナを釣る夢は、低く漂う雲海の中に消えた。下る途中、全員が満ち足りない心を引きずり足取りも重かった。湿原の中をゴボッ、ガボッと物凄い音が聞こえてきた。恐る恐る中を覗けば、底なし沼のような大きな穴があった。「山を甘くみたら駄目だど。山に入ったら人間の思い込みほど恐ろしいものはねぇんだ。」と中村会長がボソリと言った。
 今晩のイワナは一人2〜3尾。沢の轟音とシートを打つ雨音の中、焚き火を囲み、イワナの刺身、空揚げ、ミズタタキ、フキの煮付け、ミズと塩昆布の即席漬け・・・をツマミに酒を酌み交わす。何度も地図をみながら消えた沼の謎を解こうとするがわからない。結論は、大きなガレ場がある二又は、左ではなく右に進むべきだったということ。左に針路を間違えたために、胆沢川本流とスギヤチ沢の間に広がる広大な湿原に迷い込んでしまったのだ。それでも高層湿原に生きるイワナに出会えただけでもラッキーと言えるだろう。

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