川口君事件の記憶(五)−『対論 1968』と『漂流 日本左翼史』の川口君事件記述
 
        瀬戸宏
 
*本HPが初出
 
2023年1月10日
 
**スガ秀実氏のスガ(漢字)がHPで表示できないので、スガとカナ表記します。
 
川口大三郎君追悼資料室目次
  川口君事件はこれまで一般的な昭和史、1970年代論などではほとんど取り上げられることはなかったのですが、2022年には川口君事件を一定の紙幅で言及した書籍が二冊出版されました。池上彰・佐藤優『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972−2022』(講談社現代新書、2022年7月20日、以下『漂流 日本左翼史』と略記)と笠井潔・スガ秀実『対論 1968』(集英社新書、2022年12月21日)です。『漂流 日本左翼史』は、第一章「『あさま山荘』以後(一九七二年〜)」で「『川口大三郎事件』の衝撃」という節をたて、『対論 1968』は第一章「1968」で「村上春樹と川口事件をめぐって」という節をたてています。二つとも、帯に“川口(大三郎)事件”を記しています。(背表紙の方なので、HP掲載の書影にはありません。)

 この二冊は似ているところがあります。どちらも新書本で比較的安価であり、しかも対談集だということです。ページ数も『漂流 日本左翼史』が188ページ、『対論 1968』が270ページとさほど長くなく読みやすい本です。おそらくそれらが理由で、2023年1月1日時点では、『漂流 日本左翼史』がAmazonnカテゴリー平和運動ベストセラー1位、『対論 1968』がAmazonnカテゴリー昭和・平成ベストセラー1位でした。『漂流 日本左翼史』はAmazonnカテゴリー昭和・平成ベストセラー3位でもあります。広く市販され売れ行きの良い書籍で川口君事件が語られることは、事件の風化に抗して「川口大三郎君追悼資料室」を主宰・維持してきた私にとってたいへん嬉しいことです。

 この二冊の川口君事件の記述内容を紹介・検討してみたいと思います。刊行順とは逆になりますが、『対論 1968』の方が川口君事件について紙幅を多く取っているので、こちらからまず紹介することにします。

●『対論 1968』
 同書はすでに記したように笠井潔・スガ秀実両氏の対談集ですが、聞き手として外山恒一氏が参加しており、外山氏の発言もかなりの紙幅を占めていて、実質的に三人の鼎談集になっています。対談自体は2021年9月に行われたとのことですが、その後かなり加筆され、対談の時点では刊行されていなかった『彼は早稲田で死んだ』(2021年11月)に対する言及もあります。
 著者紹介や本文の記述、ネット上の紹介によれば、笠井潔氏は1948年生まれで小説家・文芸評論家です。小説・評論を問わず多数の著書があります。本文に記すところでは、高校中退を経て高卒の資格を問われなかったという理由で1968年に和光大学に入学し、共産主義労働者党という党派に所属し同党の学生組織プロレタリア学生同盟の委員長を務めました。1971年同党分裂後は最左派とされた赤色戦線派に関わった後、マルクス主義に基づく運動に限界を感じて運動から離れ、執筆活動に従事してきたとのことです。

 スガ秀実氏は1949年生まれで、やはり文芸評論家です。学習院大学中退。在学中から近隣の早稲田大学に出かけ、新左翼系の早大反戦連合の運動に参加、しかし党派には所属しなかったようです。その後「日本読書新聞」編集長などを務めながら評論活動に従事し、近畿大学教授も務めました。やはり大量の著作があります。
 
 外山恒一氏は1970年生まれ、1980年代後半に高校の管理教育に反発して高校生活動家になり、全共闘運動の後継者を自認するようになりました。20代を左翼活動家として過ごし平行して各種文筆、文化芸術活動を行っていましたが、2003年に「説明するのもメンドくさい複雑な経緯」で獄中にあった時、思想変更してファシストとなったといいます。2007年東京都知事選に立候補し、その時のユニークな政見放送で注目を集めました。ただその後も新左翼への関心は失わず、2014年から「教養強化合宿」と称する学生向けの左翼運動史に関する勉強会を開催。『対論 1968』は外山氏の提案で実現したとのことです。

 『対論 1968』は全体としては1968年前後の全共闘・新左翼運動の検討が中心ですが、上述のように川口君事件にもかなり言及しています。そのポイントは、「多くの若者たちが完全に“政治”に背を向けて、現在の“何もない大学”と化していくターニング・ポイントは、結局、川口事件じゃないですか。」(外山氏の発言、p172)ということです。これ以後、学生運動が盛んだった大学のほとんどが内ゲバ新左翼党派の支配に置かれ、大学当局も新左翼党派を利用して学内秩序維持を図った、と外山氏は指摘しています。スガ氏も「オレは連赤よりも川口事件のほうが衝撃」(p173)と発言し、外山氏に同意しています。笠井氏は川口君事件に対しては特に発言していませんが、二人の発言内容に反対ではないようです。

 私も、外山、スガ両氏の発言に大筋では賛成です。ただスガ氏が早大特に文学部が「革マルの支配が貫徹していた」と言っているのは、実際にその中にいた私からみると少し違和感があります。確かに学生運動(左翼政治運動)をやる部分に対しては、革マル派は暴力的対応を含めて強く影響力を発揮しようとしましたが、それ以外の一般的学生に対しては影響力は発揮できませんでした。私は1971年入学ですが、1971年では第一文学部で学生大会(定足数は全学部生の五分の一)はまだ成立していました。しかし1972年になると、もう革マル支配下の文学部では学生大会は革マル派発表をもってしても成立しなくなっていました。学生層の質が変わり、革マルも新しい質の学生を組織できなくなってきたのです。学生運動、左翼運動に関わらなければ、革マルもいないも同然でした。

 
 学生層の変化ということでは、私の記憶に強く残っていることがあります。1972年11月の早大キャンパスは、革マル自治会執行部リコール運動で騒然とした雰囲気でしたが、その雰囲気と無関係なように、大隈講堂前に暫という劇団の「郵便屋さんちょっと」という歌舞伎の隈取りの絵を添えた宣伝立て看が出ていたことを覚えています。今から思えば、これが劇作家つかこうへいの実質的デビューでした。このあと、つかこうへいはどんどんメジャーになっていきます。つかこうへいの芝居は、学生運動のような理想主義にのめりこむ部分から距離を置き、むしろ冷笑する内容です。その時は気が付きませんでしたが、今日からみれば学生層の質の転換を象徴するような出来事だったと思います。革マル糾弾・自治会再建運動の盛り上がりの裏で、学生層の変化が密かに進行していたのです。

 
 スガ氏の発言でもう一つ疑問があるのは、巻末の「本文とかかわる後注」で『彼は早稲田で死んだ』の末尾の奥島総長が革マル派支配を一掃した、という記述に対して、それは表面的な措置であって、「早稲田には今でも革マル派が多数存在している」(p251)と述べている点です。確かに、旧図書館(現、会津八一記念博物館)横に革マル系と思われる立て看が出ているのを、私も何度かみたことがあります。しかしスガ氏の観点は、党派あるいは集団が勢力として存在していることと、メンバー(活動家)が単に存在していることの違いを無視しています。革マル以外の左翼政治党派、ノンセクト運動が存在しないのは学生層の質の変化であって、革マル派が他党派などの運動を圧迫しているのとは違うのではないでしょうか。

 本文の記述に話を戻すと、節の題名にもあるように、川口君事件と村上春樹の関係に言及しているのは、本書の大きな特徴です。川口君事件と村上春樹については私もここで文章を書きましたが、『海辺のカフカ』以外にも村上春樹『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング、2015年9月)に次のような記述があります。

「基本的には学生運動を支持していたし、個人的な範囲でできる限りの行動はとりました。でも反体制セクト間の対立が深まり、いわゆる『内ゲバ』で人の命があっさりと奪われるようになってからは(僕らがいつも使っていた文学部の教室でも、ノンポリの学生が一人殺害されました)、多くの学生と同じように、その運動のあり方に幻滅を感じるようになりました。そこには何か間違ったもの、正しくないものが含まれている。健全な想像力が失われてしまっている。そういう気がしました。(中略)それで僕はもう一度、より個人的な領域に歩を進め、そこに身を置くことになりました。」(第二回 小説家になった頃、p37)

  ここに書かれている内容は、先に引用した『海辺のカフカ』の大島さんの言葉と同じ内容です。川口君事件が村上春樹の作家生活に大きな影響をもたらしたのは、明らかではないでしょうか。村上作品に詳しい人が調べれば、もっと同趣旨の発言が見つかるかもしれません。スガ氏は「膨大な村上春樹研究があるにもかかわらず、この川口事件との関係が論じられていない様子なのは、むしろ奇っ怪です。」(p172)と語っていますが、これにはたいへん同感です。川口大三郎君の“無意味な死”(川口君だけではありませんが)が少しでも意味を持つよう、村上春樹はじめ日本現代文学と川口君事件などとの関係が論じられることを、願ってやみません。
 
 ただ、スガ氏が、村上春樹の単行本化されていない中編小説「街と、その不確かな壁」(『文学界』1980年9月号)は「川口事件を引き起こすような早稲田の環境というものを、壁に囲まれてほとんど死んだようになっている“街”に仮託してかいているんじゃないか・・というふうに読めるんだよね。」(p171)と述べているので、図書館でコピーして「街と、その不確かな壁」を読んでみましたが、川口君事件当時の早大文学部に在学していた私の実感とは、やはり違うように思いました。

 
 『対論 1968』全体の趣旨である1968年前後の全共闘・新左翼運動については、ここでは触れません。ただ私は同書を通読して、1968年の意味を全体的に明らかにするためには、新左翼だけではなく共産党・民青や社会党・総評など“既成左翼”の側も視野に入れる必要があるのでは、と思いました。1968年前後は共産党・民青も大きく勢力を伸ばしていたし、社会党・総評系もそれなりの影響力を持っていたからです。

 そのほか『対論 1968』に不正確な内容を事実を確認せずにそのまま記していると思われる部分があることも、気になりました。たとえば「日中国交正常化(1972年)前に周恩来が極秘来日していて、その時、中核派の本多延嘉書記長と会って資金援助を申し出ていた(中核派は拒否)という話があります」(スガ氏、p199)などです。
 
 「川口事件を闘った“同窓会”グループ(瀬戸宏らの川口大三郎事件情報資料室。ネットで閲覧可)」(p171)という記述もそうです。当資料室を紹介していただいたことはありがたいのですが、当資料室の名称は川口大三郎君追悼資料室です。また当資料室はトップページに明記したように私の個人運営であり、“同窓会”グループではありません。このような単純な事実関係ミスがあるのは残念なことです。“同窓会”グループというのは、「1972年11月8日−川口大三郎の死と早稲田大学」のことでしょう。このグループは私も当初は関わっていましたが、暴力論など意見の違いがあり途中から関わりをやめました。しかし敵対しているわけではなく相互リンクもしているし、私の方から資料提供もしています。

●『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972−2022』
 池上彰・佐藤優『漂流 日本左翼史』は、『対論 1968』で私が欠けていると感じた既成左翼ー日本共産党、旧日本社会党・総評の基本的な動きを知るのに良い本です。この本は『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960 』(講談社現代新書、2021年6月)、『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972 』(講談社現代新書、2021年6月) と三部作になっており、その最後の巻にあたります。このシリーズ全体についての感想は別の機会に譲り、ここでは川口君事件に絞って紹介、意見を述べることにします。
 
 同書には著者紹介がないのですが、第一巻にあたる『真説』によれば、池上彰氏は1950年生まれ、慶應義塾大学卒業後、一九七三年にNHK入局。報道記者、キャスターとして活動後、2005年からフリーになり評論家として活動中です。
 佐藤優氏は1960年生まれ。1985年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。主として対ロシア外交の分野で活躍し、鈴木宗男事件で逮捕された後2005年に『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』で評論家として登場、それ以後活発な評論活動を続けています。
 
 佐藤氏は『彼は早稲田で死んだ』刊行直後から強い関心を示し、『週刊現代』2021年12月4日号(2021年11月29日発売)にかなり長い書評を寄せています。樋田氏を通じて佐藤氏から同意を取り、この資料室に転載しました。佐藤氏は大宅壮一ノンフィックション賞の選考委員も務めており、選評からも佐藤氏が『彼は早稲田で死んだ』を積極的に推したことが覗えます。

 『漂流 日本左翼史』での川口君事件への言及は3ページ程度で、それほど長くはありません。川口君事件とその後の自治会再建運動の経過を両氏が手際よく要約紹介した後、佐藤氏が次のように語ります。

 
「(『彼は早稲田で死んだ』を)読んでいてやはり印象的なのは、早稲田における革マル支配が完成する過程で、不作為に徹した大学当局の責任が非常に大きかったということです。当時の早稲田大学当局は革マルを、一種の用心棒として学内を仕切らせており、それゆえに革マル排除には一貫して及び腰でした。」(p32)

 そして佐藤氏は、早大当局が大学管理のため革マルをのさばらせてきた、という指摘を受けて川口君事件の日本左翼史での位置をまとめます。

「警察が暴力団と癒着して縄張り(シマ)を仕切らせているのと同じ構図です。こうした現実を目の当たりにして、早稲田の一般学生たちは新左翼に対して心底嫌気がさしてしまったというわけです。(中略)後の世であまり知られていませんが、この川口大三郎君殺害事件もまた、新左翼運動が社会的な広がりを喪う大きな転換点の一つだったのではないかと思います。」(p33)

 両氏の意見に、私も異議はありません。思想的立場は違いますが、『対論 1968』とほぼ同じ結論です。扱いは短いですが、川口君事件を日本左翼史全体の中で位置づけようとした有意義な論考と思います。
 
 
 冒頭でも記したように、比較的大衆的な新書で川口君事件が語られることは、たいへん意義深いことです。『彼は早稲田で死んだ』はかなりの成功を収めましたが、その普及度はまだまだだと私には思えます。川口君事件が風化しないためにも、より多くの書籍・媒体が川口君事件を取り上げてほしいと思います。(2023年1月10日)