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川口君事件の記憶
       −松井今朝子『師父の遺言』と村上春樹『海辺のカフカ』
                                                                    瀬戸宏
*このHPが初出。2014年11月10日、11月14日・15日一部修正。
                                    

                                   (一)
 最近、川口君事件に触れた文芸作品を二つ読みました。そこで感じたことを、メモにまとめておきます。
 
 一つは松井今朝子『師父の遺言』(NHK出版 2014.3.20)です。松井今朝子は1953年生、1972年早稲田大学第一文学部入学同大学院演劇専攻修士課程修了で、直木賞作家です。
 『師父の遺言』は、武智鉄二との交流を中心とした長編自伝エッセイですが、そこに川口君事件が出てきます。ある人からこの事を教えられ、通読しました。該当部分の全文を引用します(ネット上で読みやすいように空き行を入れます)
 
「もちろん私はノンポリ学生で通したが、デモには一度だけ参加している。それは川口君という文学部の二年生が構内で革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)のリンチによって虐殺された際に、一般のノンポリ学生が革マルの追放を呼びかけて立ちあがった学内デモである。川口君の死にざまは立て看やチラシに無惨な図入りで訴えられて、それはいくらノンポリでも学内にいて見過ごすわけにはいかない事件だった。近年、私は村上春樹の『海辺のカフカ』*3を読んで、ある部分の描写が明らかに川口君事件をモデルにしていると直観したくらい、心に深く刻まれた事件なのである。
 
 男子学生と肩を並べてスクラムを組むと、小柄な私は足が宙に浮いてしまう。その状態でキャンパスのスロープをかなりのスピードで行進されると、まるで絶叫マシーンに振りまわされるような感じになった。背後からの将棋倒しで大勢の男子学生の下敷きになった時は、胸が強く圧迫されて呼吸ができず一瞬目の前が真っ暗になり、それはこのまま死んでしまうかもしれないと恐怖した数少ない体験の一つである。
 
 当時の早稲田は大学当局と革マル派との癒着が取りざたされており。大学祭の運営が革マル派の資金源となっているのを当局は黙認しているかたちだった。その理由は、共産党系の民青(日本民主青年同盟)に学内が牛耳られることを恐れるあまり、革マル派と手を結んだほうか得策とするのだろうと、ノンポリ学生は冷ややかに推測していた。事の当否はともかく、当局が機動隊の学内導入によって早期解決を図った結果、一般学生による革マル派の追放はついに成らず、三十人ばかりの私のクラスでは、この紛争による犠牲者が何人も出てしまった。一般学生の代表を務めたり、民青との関係があるとみられた学生は革マル派に狙われる恐れがあるため、自主退学を余儀なくされたのだ。今では考えられないような話だが、実際に川口君が構内で殺された直後だっただけに、学内に留まれば彼らも命が危険にさらされると感じたのだろうし、当時の私たちにもそう思えたのである。
 
 ポスト団塊の私たちは世の中でシラケ世代と呼ばれたが、個人的にはこの事件によって早稲田大学というものに心底しらけてしまった。それは敵の敵は味方といった功利的な手の結び方をするオトナ社会全体に対するしらけ方であったのかもしれない。」
(同書 九 政治の季節の終焉 p69-p71)
 
 松井今朝子にこういう体験があることは、『師父の遺言』を読んで初めて知りました。川口君虐殺糾弾運動の広がりを示す一つの資料になると思います。ここで紹介した所以です。
 ただ、引用した文章には、私からみて松井今朝子の事実誤認ないし記憶違いと思われる部分が二つあります。それを記しておきます。
 
 一つは、「(早大当局は)共産党系の民青(日本民主青年同盟)に学内が牛耳られることを恐れるあまり、革マル派と手を結んだほうか得策とするのだろうと、・・・推測していた」という部分です。虐殺発覚後の糾弾・自治会再建運動で民青は大きな役割は果たしていません。川口君事件の半年前に起きた新日和見主義事件で民青の活力は大きく削がれ、当時の学生の中の反民青感情も非常に強いものがありました。
 早大当局がある時点で革マル派を温存した方が得策だと判断したのはその通りだと私も思いますが、それは対民青よりも事件を機に早大にも姿を現した中核派・解放派・黒ヘルノンセクト・ラジカルなど新左翼諸派が学内で公然と活動すれば、革マル派が支配する以上に学内が混乱すると当局が考えたからだと思われます。これには私なりの根拠があるのですが、現在はまだ資料収集・整理の途上ですので、ここでは詳細を述べるのは控えます。
 
 もう一つは、「一般学生の代表を務めたり、民青との関係があるとみられた学生は革マル派に狙われる恐れがあるため、自主退学を余儀なくされたのだ」という部分です。
 当時の活動家のかなりが中退したのは事実ですが、私の認識ではその主要な理由は「革マル派に狙われる恐れ」ではありません。
 
 確かに1973年に入って革マル派の巻き返しが始まると、活動家に対する公然たる狙い撃ちの暴行も始まり、特にキャンパスが独立している文学部では活動家は登校できなくなりました。しかし、1973年秋以降は、戦争とも言われる革マル派対中核派、解放派の文字通りの殺し合い内ゲバが激化し、革マル派は民青も含めた比較的穏健な他セクトや一般学生活動家どころではなくなり、時々顔見知りの革マルからいやがらせを受けることはあっても、キャンパス内にまた入れるようになっていました。
 
 更に、文学部は川口君の所属学部だけあって教員は革マルの横暴を理解しており(教員の中にも革マル派に日常的に暴行される者がいた)、運動に対してもある程度は同情的でした。そのため、公開されていることではありませんが、確かに革マル派のために登校が困難な学生に対しては、試験のレポート代替、喫茶店など学外の安全な場所での面談・試験実施などの救済措置を取ったのです。(政経学部など本部キャンパスの学部ではそのような措置はなかったとのことです)だからどうしても卒業するという強い意志があれば卒業は可能でしたし、実際に、運動のリーダーであった再建一文自治会委員長樋田毅君をはじめ活動家の相当数は無事に卒業しています。活動家中退の主要な理由は、早大での勉学意欲喪失だと思われます。
 もちろん、これは「早稲田大学というものに心底しらけてしまった」という松井今朝子の当時の心情と相通じるものです。当時の早大には中退を善しとする風潮もありました。大学当局をさんざん批判しておいて、救済措置申請というある意味では大学当局への屈服行為をするくらいなら中退を選ぶ、という活動家もまたいたことでしょう。
 
                                      (二)
 松井今朝子の上述の引用文には村上春樹『海辺のカフカ』の書名があり、文末の注釈には、次のようにあります。
 
「*3 『海辺のカフカ』作中に登場する佐伯さんという図書館の管理をする女性は過去に恋人を亡くしているという設定だが、その恋人が殺された経緯と様子は実際の事件に酷似している。」(同注釈 p261)
『海辺のカフカ』川口大三郎で検索してみると、似た内容を書いているブログ、ツイッターも散見されます。
 
 私は村上春樹の良い読者ではありませんが、川口君事件が出てくるというので『海辺のカフカ』を読んでみました。2002年刊行でぶ厚い文庫本上下二冊の長編小説ですが、さすがにベストセラーになっただけあって読みやすく読者を引きつける魅力もあり、あっという間に完読してしまいました。作中には確かに川口君事件を連想させる箇所があります。その部分を引用します。
 
「20歳のときに佐伯さんの恋人は死んだ。『海辺のカフカ』が大ヒットしている最中のことだ。彼の通っている大学はストライキで封鎖中だった。そこに泊まりこんでいる友人に差し入れをするために、彼はバリケードをくぐった。夜の10時前だった。建物を占拠している学生たちは、彼を対立セクトの幹部とまちがえて捕まえ(顔がよく似ていたのだ)、椅子に縛りつけて、スパイ容疑で『尋問』した。彼は人違いであることを相手に説明しようとしたが、そのたびに鉄パイプや角棒で殴りつけられた。床に倒れると、ブーツの底で蹴りあげられた。夜明け前には彼は死んでいた。頭蓋骨が陥没し、肋骨が折れ、肺が破裂していた。死体は犬の死骸みたいに道ばたに放りだされた。2日後に大学の要請があって機動隊が構内に突入し、数時間であっさりと封鎖を解除し、何人かの学生を殺人容疑で逮捕した。学生達は犯行を認め、裁判にかけられ、もともとの殺意はなかったということで、二人が傷害致死罪で、短い懲役刑を宣告された。誰にとっても意味のない死だった。」
(『海辺のカフカ』第17章 新潮文庫版上p336-p337)
 
 『師父の遺言』注釈には「実際の事件に酷似している」とありますが、両者の間には対立セクト活動家と間違われて捕まって殺された、という共通点はあるものの、事実関係では両者は相当に異なっており、表面上は決して酷似していません。このHPは川口君事件の事実を伝えることも大きな目的ですから、煩をいとわず『海辺のカフカ』(以下、『カフカ』と略記)と実際の川口君事件との相違を指摘することにしましょう。

1.『カフカ』では、事件が起きた時大学はストライキで封鎖中でしたが、川口君事件が起きた時早大は平常に授業が行われていました。川口君も、体育の授業を受けた後、自治会室に拉致されたのです。
2.『カフカ』では、夜の十時頃に佐伯さんの恋人は捕まりましたが、川口君が拉致されたのは午後二時過ぎです。(1.とあわせて、川口君はキャンパスの日常の中で白昼公然と拉致されリンチされ殺された、ということが、虐殺糾弾運動があんなにも盛り上がった大きな理由の一つだと思われます。)

3.『カフカ』では、恋人は対立セクトの幹部とまちがわれて捕まりましたが、川口君は特定の個人と似ていたのではなく、対立セクトメンバーだとされて捕まりました。
4.『カフカ』では、恋人は夜明け前に死にますが、川口君の推定死亡時刻は午後十時頃とされています。

5.『カフカ』では、恋人は頭蓋骨陥没していますが、川口君の死因は全身打撲で体の細胞が破壊されたことによるショック死です。打撲は全身におよび、特に背中と両腕の打撲の傷は深いところまで達していたといいますが、私の知る限り、頭蓋骨陥没していたという資料はありません。頭を強打するという、即死につながりかねない殴り方は、革マルもしなかったということです。(それだけに、川口君の死は革マルの当事者にとっても予想外だったと思われます。)
6.『カフカ』では、恋人の遺体は道ばたに捨てられますが、川口君の遺体は大学(東大)構内に捨てられました。
 
7.『カフカ』では、二日後に機動隊が学内に入って何人かの学生を殺人容疑で逮捕しましたが、川口君事件では捜査はなかなか進まず、犯人によっては一年近くたってから逮捕されています。(当時私は、糾弾運動が静まるのを待って逮捕したのでは、と疑いました)
8.『カフカ』では、「二人が傷害致死罪で、短い懲役刑を宣告された」とありますが、川口君事件では、起訴された犯人は五名(うち一人は分離裁判)で、最も重い者は八年の懲役刑(実刑)を宣告されています。八年は、決して短いものではありません。(ただし、判決が出た時には、虐殺糾弾運動はもはや影も形もなくなっていました。)
 
9.川口君事件では、自治会執行部が自治会員を殺したということで、川口君の死を契機に『師父の遺言』にも記述されているように広範な革マル糾弾・自治会再建運動が起こりましたが、『カフカ』にはそのような言及はありません。
10.川口君には、これまで知られている限り、『カフカ』の佐伯さんのような恋人の存在はありませんでした。

 些末にこだわりすぎたかもしれませんが、事実関係を確認しました。(川口君の死の事実関係については、当HP掲載『声なき絶叫』収録「『11.8』事実経過」を参照してください。)
 
 しかし、私は『海辺のカフカ』をもう少し読んで、村上春樹はやはり川口君事件から深い着想を得て佐伯さんの恋人殺人事件を創作したのだと思いました。事件の記述から少し先で、大島さんという佐伯さんの同僚の青年は、次のように語ります。
「佐伯さんの幼なじみの恋人を殺してしまったのも、そういった連中なんだ。想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。」
(同第19章 新潮文庫版上p385)
 ここに書かれている内容は、まさに川口君事件を引き起こした原因そのものです。村上春樹は、川口君事件当時まだ早大に在籍していましたので(大学にはもうほとんど登校していなかったようですが)、事件から衝撃を受け事件に関心を持っても不思議ではありません。『海辺のカフカ』は小説ですから、現実の事件の細部を忠実に再現する必要もありません。
 
 『海辺のカフカ』を読んだ人はおわかりだと思いますが、佐伯さんの恋人が殺された事件は、記述はごく短いが『海辺のカフカ』という作品の中で極めて重要な位置を占めています。佐伯さんは事件の衝撃で、20歳の時から時間がとまってしまいます。恋人の死後、佐伯さんは故郷の高松から離れ、25年後に突然高松に帰ってきて、恋人の実家を改造した図書館の館長になります。25年の間、佐伯さんが何をしていたか、知る人は誰もいません。
 ネタバレになるかもしれませんが、佐伯さんは、田村カフカと自称する小説の主人公である15歳の「僕」の母親「かもしれない」女性で、謎の25年間に「僕」の父親と結婚し、「僕」と姉を産んで、その後「僕」が4歳の時父親と離婚し家から去った「らしい」のです。佐伯さんの恋人の死がなければ、「僕」は存在せず、また佐伯さんは高松で「僕」と関わりを持つこともなかったのです。そう考えると、川口大三郎君の死にモチーフを得て創作された佐伯さんの恋人の死は、『海辺のカフカ』という物語の隠された根源と言えるかも知れません。
 
 残念ながら、現在の私は村上春樹や『海辺のカフカ』について突き詰めて考える余裕が無く、このメモもここで打ち切らざるを得ません。このメモが、村上春樹研究の専門家・批評家や愛読者が村上春樹や『海辺のカフカ』について考える一つの手かがりになり、さらに川口君事件の風化を押しとどめる一助になれば幸いです。

 
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