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               佐藤優 名著、再び 第二百十五回

                          ビジネスパーソンの教養講座
                                        
 
*『週刊現代』(講談社)2021年12月4日号(2021年11月29日発売)掲載。html版への転載では、ネット上で読みやすくするため空き行を増やしている。転載にあたっては、佐藤優氏の同意を得た。

                                              PDF版(ワンドライブに収録)
 
革マル派の凄絶な襲撃・・・。なぜ若者達は暴力の罠にはまってしまったのか
 

 樋田毅氏(元朝日新聞記者、1952年生まれ)は、早稲田大学で革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)と対峙する学生運動のリーダーだった。文学部自治会委員長をつとめていた樋田氏は、173年5月14日夕刻、革マル派に襲撃され、重傷を負った。
 
 (夕刻、仲間と二二号館前で話していると、突然、物陰から一〇人前後の見知らぬ男たちが現れた。その中で、かすかに見覚えのある学生風の男が私を指差し、「こいつが樋田だ」と叫んだ。/彼らはすごい形相で私を睨みつけ、明らかに殺気だっていた。上着の内側に隠し持っていた短い鉄パイプを取り出すのを目にして、これはまずいと直感した。いつかは襲われるという予感はあったが、突然、その日が訪れたのだ。/
 
(中略)「足を狙え」という声とともに、足首、膝、すねに一斉に鉄パイプが振り下ろされる。/鉄パイプがすねに打ちつけられる度に、骨に直撃する鈍い音とともに想像を絶する激痛が走る。だが、彼らは無表情で黙々と鉄パイプを振り下ろし続けた。/その無表情に恐怖心がさらに煽られ、私は「このままでは殺される」と本気で感じていた。/致命的なダメージを一瞬にして与える刃物や銃などの武器とは違い、鉄パイプは殺傷効果では劣るが、それだけに何度も振り下ろされることで、激痛とともにその恐怖で心身が冒されていく。まさに、あらゆる意欲が削がれていくのだ。/彼らにとって、敵の戦意を萎えさせ、服従させるために、これほど有効な武器はないだろう。/
 
(中略)私は近くに自転車駐輪用の鉄柱を見つけると、腕を回して抱え込み、身体をエビのようにくの字に丸め、鉄柱を軸にしてぐるぐる体を回転させながら、痛みに耐え、鉄柱にしがみつき続けた。/男たちは私の足を持ち上げて、鉄柱から引き離そうとするが、私は必死だった。/少しすると、男たちは業を煮やしたのか、「腕をやれ」の声とともに、今度は私の頭部と腕に鉄パイプを振り下ろし始めた。/頭部から血がはとばしり、鉄柱を抱える腕に激痛が何度も走る。彼らは鉄柱に回した腕をほどこうとするが、それでも私は最後の力を振り絞って堪え続けた。/(中略)おそらく、数分間の出来事だった。だが、私にはとてつもなく長い時間に思えた〉。
 
 樋田氏が学生運動に深く関与する契機となったのは、'72年11月8日に早稲田大学第一文学部学生だった川口大三郎氏が自治会室で殺される事件が起きたからだ。樋田氏らは革マル派の暴力支配に対抗するという素朴な正義感から運動を組織する。当初は広範な学生のエネルギーを結集したが、革マル派と敵対するセクトやノンセクトの黒ヘルグループなどが介入してきて非暴力的な運動が暴力性を帯びてくる様子が、樋田氏の視点から描かれている。
 
 この本でいま一つわからないのが樋田氏と民青(日本共産党系の青年組織)の関係だ。民青は表面上、暴力反対を掲げていたが、早稲田大学法学部自治会を強権的に支配していた。本書には、’73年1月18日に早稲田大学本部キャンパスで革マル派と中核派が衝突した際のエピソードとしてこんな話が記されている。〈合同集会に参加していた法学部自治会(民青系)前委員長の柳ケ瀬直人さんの提案で、数十人の集会参加者のほぼ全員が本部キャンパスの東側に建つ四号館一階の政経学部学生ラウンジに避難した。柳ケ瀬さんが普段から事務所代わりに使っている場所で、「ここなら安全だ」と言われ、私たちは同ラウンジのガラス張りのテラス越しに、戦闘の一部始終を傍観することになった〉。
 
 時期はその10年後になるが、評者は新左翼系の同志社大学神学部自治会のシンパだったので、民青とは頻繁に衝突していた。殴り合いになったことも何度かある。だから民青が非暴力的だというのは皮膚感覚として信じられない。また民青が安全な事務所を友好勢力以外の学生に提供することも考えられない。もっとも早稲田大学と同志社大学では民青の体質が異なるかもしれないので、この点については判断できない。
 
 川口氏が殺害された当時の文学部自治会は革マル派が支配していた。そのときの田中敏夫委員長は、〈事件からほぼ一年後の七三年一一月七日に、「川口君事件に対する私の態度と反省」と題した「自己批判書」を書いていた。そこには、「暴力には人間の腐敗性に通じる入り口が用意されている」「当時の自治会の責任者として社会的責任を負う」「学生運動から完全に手を切る」などとあり、それまでの自分の思想と言動を否定し、転向を宣言する内容だった〉。田中氏は、学生運動から離れ、父親の金属加工会社の経営を継いだが、’05年頃に55歳で事業を畳み、読書と油絵を描くことに時間を費やしていたという。’20年1月に樋田氏は、田中邸を訪ねたが、同氏は’19年3月1日に心筋梗塞で死去していた。田中氏の妻の述懐が心に沁みる。
 
〈結婚後も田中さんは早稲田での出来事を、妻に語ることはなかった。/それでも、まれに耳にした田中さんの独り言のようなつぶやきの断片を、妻はいまもよく覚えている。/「集団狂気に満ちていた」/「ドストエフスキーの『悪霊』の世界だった」/「全く意味のない争いだった」/「彼らは、川口君を少し叩いたら死んでしまったと言った。だけど、そんなことはあり得ない」/「すべて私に責任がある」〉。確かにこの事件を理解するためには、今年で生誕200年になるドストエフスキーの『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』を併せて読む必要がある。当時の革マル派指導者、反革マル派の学生だった人達からも詳しい取材をして、なぜ暴力の罠に若者達がはまってしまったか解明しようとする樋田氏の誠実な取材姿勢に感銘を受けた。
                                                     (2022年1月10日転載)