石田三成の生涯略歴


ここで示したのは、石田三成の生涯の主要な事績のみを年表的にまとめたものです。
新人物往来社「石田三成の全て」の年表を参考にしています。
ただし三成の、特に前半生は良く分かっていない点も多く、異説があるものも多くあります。異説はできるだけ加筆するようにしましたが、書ききれていない部分もあります。
西暦年元号年年齢事績
1560永禄31近江国坂田郡石田郷に生まれる。幼名佐吉。

(補足)石田氏は、この地方の土豪であったとする見方が一般的である。
 特に、三成の父・正継(為成)は、この地方の有力者であり器量人であったことが、観音寺関係の史料から窺える

 
1574天正215このころ近江にて秀吉に見いだされ,その家臣となったとされる。仕官に際しては有名な三献茶のエピソードがある。(「砕玉話」)

(補足)なお家臣となったのは三成が18才、秀吉が姫路にいる時だとする説もある。(「妙心寺寿聖院・霊牌日鑑」)
「霊牌日鑑」の記述も、当時の三成の石高を五百石とするなど、そのまま信じにくい部分がある。
秀吉の当時の近江経略拠点・横山城は、三成の出生地/石田の直近にあり、この地方の有力者であった父・正継と秀吉の繋がりから、三成が秀吉の家臣となったと考えるのが自然では無いだろうか?

1577天正518秀吉の中国攻めに従う。
1578天正619秀吉の三木攻めに従う。
1581天正922(10月)秀吉の鳥取城攻めに従う。
(11月)仙石秀久とともに淡路攻めに赴く。
1582天正1023(5月)備中高松城攻めに従う。
(6月)秀吉の中国大返し、山崎の戦いに従う。
1583天正1124(3月)秀吉に従い、近江佐和山城に行く。柳ヶ瀬の柴田軍の動向を探り、秀吉に報告する。
 (称名寺文書。「三也」の初見である)

(4月)賤ヶ岳の戦いに参加し、「先駈衆」として功名をあげたとされる。
 (「一柳家記」。ただし原文の記述では、武功を挙げたのが三成であったかどうか、明言を避けた表記になっている)

(5月)直江兼続に書を送り、秀吉・上杉の同盟を斡旋する。

(補足)この年、近江・水口4万石の城主となり、また名将・島左近を召し抱えたとされるが、これには異説が多く、そのまま信じることはできない。「多聞院日記」の記述に従うと、左近が三成に仕えたのは1590年以降となる。
また最近の研究では、左近は秀吉の直臣であり、その命により三成の与力になったのだ、とする説もある。(坂本雅央氏「平群谷の驍将 嶋左近」 平成14年8月)

1584天正1225(3月)秀吉に従い、小牧に出陣する。
(11月)近江国蒲生郡の検地奉行をつとめる。
1585天正1326(7月)従5位下治部少輔に叙任される。
(8月)越後の落水城にいき、直江兼続とともに秀吉・上杉景勝の会盟に立ち会う。

この年五奉行に任じられたとの説もあるが、これには異説が多い。

1586天正1427(6月)上杉景勝上洛し、秀吉に謁見する。三成がこれを斡旋する。
(6月)堺の奉行となる。
1587天正1528(3月)秀吉の島津攻めに従う。
(5月)島津降伏。三成は抵抗を続ける新納忠元の説得を行う。
(6月)博多町奉行となる。
1588天正1629(6月)島津義久、秀吉の謁見するため上京する。三成これを斡旋する。

この年堺町奉行を兄の正澄に引き継ぐ。

1589天正1730この年、美濃を検地する。
1590天正1831(3月)秀吉の小田原攻めに従う。
(5月)佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋する。
(閏5月)佐竹、大谷らと館林城を攻める。
(6月)佐竹・真田らと忍城を攻める。

(補足)この忍城攻めが、有名な三成の水攻めであるが、首尾よく行かず、三成の戦下手ぶりを示したものとされる。しかし当時の秀吉の書状等を読む限り、水攻めは秀吉の細かな指示によるものと考えられ、三成自身は水攻めに批判的であったと判断される。このことはHP中に別に詳述する。


(7月)豊臣秀次、大谷吉継らとともに奥州仕置を命じられ南部領に赴く。
(10月)奥州で一揆が起き、浅野長政とともに一揆鎮定の軍監を命じられ、再度奥州へ赴く。

この年、近江佐和山19万4千石の城主となったとされるが、佐和山城主となったのは、1595年の秀次処罰時であり、この時の加増は美濃・近江で五万石程度とする説もある。

(補足)なお最近の伊藤真昭氏の考察では、三成の佐和山入城を天正19年4月としている。
ただし当時の三成の所領は美濃にあり、その地位は近江を中心としてみる限り、蔵入地の代官としてのものであった、とされる。(洛北史学第4号平成14年6月)

1591天正1932(4月)南部九戸の乱鎮定に軍監として赴く。
1592文禄133(2月)朝鮮出兵の準備のため、肥前名護屋へ行く。
(6月)大谷吉継らとともに在鮮軍の奉行を命じられ渡海する。
(7月)朝鮮・漢城(ハンソン)にて出陣諸将を集め、いわゆる漢城会議を開く。

    その直後、この出兵を批判する書を国内に送る

(補足)
これが三奉行連署状であり、三成がこの戦いの行く末を見通していたものとして注目される。

三成はその後、講和成立へ向けて尽力している。
1593 文禄2 34 (1月)碧蹄館の戦い。三成は、開城(ケソン)の放棄および漢城近郊での迎撃戦を主張。主戦派の諸将を抑えてこの戦略を実行し、朝鮮軍を破る。この後、開城無断放棄を問責する使者が来るが、三成は自己の責任で対応する。
(2月)幸州山城の戦い。三成最前線で督戦し、負傷する。
(9月)肥前・名護屋へ戻る
1594文禄335(9月)島津の領国を検地する。
(10月)佐竹の領国を検地する。
1595 文禄4 36 (2月)蒲生氏郷病没。この後の蒲生家転封に伴い、蒲生家牢人を多数召抱える。
(7月)秀次、秀吉に処刑される。秀次改易に伴う牢人を多数召抱える。
1596慶長137(3月)佐和山領内に十三箇条掟書、九箇条掟書を出す。
(6月)明の講話使節を接待する。講話決裂し、秀吉、再度朝鮮出兵を行う。
1597慶長238小早川秀秋、秀吉の譴責に触れ領地没収。三成、秀秋の旧領の代官となる。
1598慶長339(8月)秀吉死す。三成は在鮮軍を撤収させるため、浅野長政らと博多に赴く。
1599慶長440(1月)徳川家康、秀吉の遺命に背き大名間の婚姻を行う。三成は前田利家らとこれを問責する。
(2月)前田利家、三成ら五奉行と家康が和睦する。

(閏3月)利家死す。三成は加藤清正ら七将の襲撃を受ける。その後佐和山に退隠する。
(補足)
なおこの際、三成は伏見の徳川家康屋敷に難を逃れた、とする書物が多いが、これは誤りであり、三成が入ったのは伏見城内の自屋敷であったことが、最近の研究で論証されている。(笠谷和比古氏「関ヶ原合戦と近世の国制」第二章 豊臣七将の石田三成襲撃事件 平成12年12月 
1600慶長541(6月)家康、上杉攻めの為に出陣(7/2)三成、大谷吉継に家康打倒の挙兵への協力を求める。
(7/17)二大老・四奉行の名を持って、家康に対する檄文発する。
(7/29)三成、佐和山を出て伏見城攻めを督戦する。
(8/5)三成、真田昌幸に書を送り、激励する。
(8/9)三成、六千余騎を率いて垂井へ出陣。大垣城へ入る。
(9/12)三成、毛利輝元の出陣を促す。
(9/14)島左近、杭瀬川で東軍の中村隊を破る。
(9/15)関ヶ原で東西両軍が戦い、三成敗走。
(9/21)三成、近江古橋で田中吉政に捉えられる。
(10/1)三成、六条河原にて処刑される。




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