近江・古橋

三成が再起を賭した湖北・山岳宗教の郷 
―――岩窟と与次郎伝説を尋ねて―――


  (古橋・法華寺あと)

「お遁げあそばせ」と、この百姓は三成を叱咤した。三成は動かなかった。
「そのほうの義を、義で返したい。」
と、三成はいった。いまここで逃げれば与次郎大夫は処刑されるであろう。
それはこの男の義に報いる道ではない。
「わしの名を救うと思い、田兵(田中兵部大輔)の兵のもとにゆき、わしの所在を告げよ。」
(司馬遼太郎「関ヶ原」より)


近江・古橋--

関ヶ原戦のあと、敗残の三成が、最後に頼った土地です。
そこは三成の母の出身地であり、都の鬼門を守る大寺院が集う山岳宗教の郷でした。
今は雑草が茂る遺跡も、かつては百有余の塔頭を連ねた大寺院だったのです。

京・大坂への道を東軍に完全に封じられた三成が、再起を賭けてここへ逃げ延びたのは、自然なことであったでしょう。
ですが、それは逆にいえば東軍側にとっても、容易に見当のつくことであったかもしれません。三成捕縛を命じられた、湖北出身の田中兵部大輔吉政はやがてこの地に押し寄せます。
追い詰める吉政と、三成を匿う古橋の人々−−−そこには、多くの伝承が生れました。
特に最後まで三成を匿ったという、古橋の百姓・与次郎大夫の逸話は、よく世に伝わっています。

三成捕縛の様子については、史料により諸説ありますが、冒頭の司馬氏「関ヶ原」のくだりは、江戸期の史料「関ヶ原軍記大成」「佐和山落城記」などに記された逸話に基づいたもので、特に有名です。


――――古橋付近の遺構

古橋の町内付近に残る三成関係の遺構です。
法華寺・参道跡

    参道跡の両脇には広い削平地が広がり、
    この寺の以前の隆盛が偲ばれます。
    三成が頼ったという法華寺は、山上の鶏足寺の
    里寺です。
    ここには三成との関係を窺わせる史料が残って
    います。
 
法華寺・石垣

    法華寺山門付近の石垣です。
    廃墟になってからも緩みをみせていません。
    往時は、かなり大規模な建物が建っていたこと
    が窺えます。
  
 
与次郎大夫屋敷跡

    古橋・龍泉寺の裏にある与次郎大夫の屋敷跡と
    伝えらる土地です。
    三成を匿った与次郎大夫は寺男であったとも言わ
    れますが、そういう伝承を思い起こさせる立地です。
    
 
与次郎が三成を背負って飛び降りたという石垣

    古橋には三成との繋がりを伝承する場所がいくつかあります。
    ここはその一つで、追っ手から逃げる与次郎大夫が、
    この石垣から、三成を背負って飛び降りたと伝えられるところです。
    石垣の石組自体は新しいものですが、三成伝承の一つとして
    紹介します。
   
 

――――三成が隠れたという岩窟(オトチ洞窟 または 三頭窟)

古橋村の背後に聳える三頭山の中腹には、敗残の三成が、その病身を横たえたと伝えられる岩窟が残っています。
「石田三成のすべて」(新人物往来社)では、熊や蝮が横行する場所なので、容易に近づけないと書いてありますが、最近は地元の方の手で道が整備され、だいぶ近づきやすくなりました。
とはいえ、岩窟の入り口は急傾斜になっており、かなり危険です。我々(オンライン三成会)が行った時は、地元郷土史家の方に案内頂き、その方に準備いただいたロープを伝わって岩窟におりました。
果たして、三成が本当にこの岩窟に隠れたのかどうかは分かりませんが、洞窟の中はかなり広く、明り取り用の穴もあり、何かの目的で使われた洞窟のように思われます。
最近は中へ入る人も多く、土砂が入って中も少し狭くなっているそうです。
洞窟への登山道入口

  「オトチ(大蛇)洞窟」との標識がある。
  登り口付近には、ハチの巣があることもあるそうです。
  特に夏場は注意ください。
洞窟付近

  洞窟付近の様子です。
  入ろうとしたら、中から蝙蝠が一匹飛び出してきました。
洞窟入口

  洞窟の入口です。
  入口部が急傾斜になっています。
  このときはロープを伝って降りました。
洞窟の中

  洞窟の中です。
  天井まで、大体、人の背丈くらいの高さがあります。
  広さは十畳程度です

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