一、 大明国へ年内乱入事、先手へ申遣、跡々の衆可押詰之由令相談候之処ニ、小西都(漢城)へ罷越、さきさき兵糧己下も之無、其上赴寒天如何之由申候、又跡之路次無人にて通路不輙候付而(たやすからず)、先被仰付国都へ入渡所務申付静可申通、各致相談、得、御掟候事、
一、 小西、小野木先手より罷越候て申ハ、唐人為加勢少々相越、朝鮮人数加、小西、小野木陣所へ三万計にて取懸候之間、及一戦追崩千計討捕候由候、小野木弟又六なとも討死仕候、何□□何之国□□□人成敗仕候も、追崩数多討とり候ヘハ敵五百も千もころし候ヘハ、此方の者も五十百つ、相果候、又手負以下も候ヘハ、勝申候内ニ日本人は無人に罷成候間、年内之儀如此先国難治、今年ハ如何候条、丈夫ニ申付候事、
(一、大明国へ年内に乱入するよう、先方諸将へ申し渡し、後続の諸将も続くように相談いたしましたが、小西行長が都(漢城=現ソウル)へ罷りこして言うところでは、前線には食料が乏しく、天候も厳寒に向かうので進撃するのは見合わせた方が良い、とのことです。また補給路を守る兵は無く、連絡も容易ではありません。よってまず国郡へ入り、民政を行って人心を静めるよう、申し渡しました。
(中略)
一、小西、小野木が前線より来て言うところでは、唐人(明国)の援軍が到着し、朝鮮軍と合流して、陣所へ三万人ほどで攻撃してきたとのことです。一戦に及び撃退し、敵兵千名ほど討ち取りましたが、小野木の弟又六などが戦死しました。敵を撃退し五百、千名ほど討ち取ったとしても、味方も五十人、百人と戦死しますし、また怪我をするものもでます。
このままでは勝ちつづけたとしても、(補給の続かない)日本軍は、やがて全滅する(無人となってしまう)ことでしょう。年内は(進撃するよりも)、まず何としても朝鮮国内の治安を安定させるよう申し渡しました。
(三成が、漢城=ソウル陣中より、長束正家に宛てた書状の抜粋)
文禄・慶長の役--
秀吉の朝鮮出兵=文禄・慶長の役に関する三成の行動に、一般には大きな誤解が二つあります。
その一つは三成が、この戦いを積極的に推進していたというもの、もう一つは三成が戦場に行かずに、安全な国内にいたことで、武将の反感をかったというものです。
この二つはどちらも誤りです。
三成は泥沼化するこの戦いの前途を見抜き、早期講和に尽力していました。
このことは冒頭に掲げた三成の書状のほか、「前野家文書」「博多記」など多くの史料で裏づけられます。
特に最初の史料で、三成は戦いの早い段階から、「このままでは日本軍は全滅する(日本人は無人に罷りなり候)」と警告を発していました。
兵站を担当していた三成は、補給が続かない日本側の行く末を見通していたのです。
また三成は文禄の役では、最前線で戦っています。
特に碧蹄館の戦いでは冷静な戦略指導をして戦いを勝利に導き、また幸州山城の戦いでは自らも負傷しました。(詳しくは拙稿 学研歴史群像シリーズ55「石田三成−武将としての三成」をご覧下さい)
ですが、三成の尽力した講和交渉は、好戦派諸将および主君・秀吉に容れられるものとはなりませんでした。
そしてこの不毛な戦いは、前後6年にもわたって続くことになるのです。
――――韓国の遺構
韓国国内に残る三成および文禄慶長の役関係の遺構です。
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熊川倭城・石垣 釜山近郊の熊川には、倭館がおかれ古くから日本との 交流が深いところでした。 三成もまずこの地から、韓国へ足を踏み入れた事でしょう。 戦いの末期には、この地には小西行長らの手で大城塞 が築かれました。 その遺構は今も良好に残されています。 |
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碧蹄館の戦い・記念碑 ソウル近郊にある碧蹄館の戦いの碑です。 英語とハングルで戦いの様子が書かれています。 碧蹄館の戦いにおいて三成は、戦いに逸る諸将を 抑え、漢城近郊まで敵軍を引き寄せてから、自軍を 結集して反撃することで戦いを勝利に導きました。 |
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韓国国鉄郊外線・碧蹄駅 ソウル近郊にありながら、1日4本しか列車のない 超ローカル線です。 古戦場には一番近い駅ですが、時間を効率的に使う には地下鉄3号線で高陽市街に行き、タクシーを利用 すべきかも知れません。 |
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碧蹄館古戦場付近の情景 写真に見える山が、先鋒の立花、小早川勢らが 布陣した山 (小丸山)です。 付近はこのような小丘陵が点在しています。 日本側は川を越え、背水の陣を敷きました。 |
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碧蹄館跡 戦いの名前の由来となった碧蹄館(中国使節の宿館) 跡です。 古戦場からはやや北に離れた集落の中にあります。 特に案内は無いので、辿り付くのは少し大変です。 |
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幸州山城・戦抄記念碑 三成が城攻めの際に負傷した、幸州山城跡に立つ 韓国側の戦抄記念碑です。 韓国にとって、この幸州山城は、朝鮮の役の三大 戦勝の一つであり、城跡は綺麗に整備され、観光客も 多く訪れています。 |
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幸州山城・案内板 幸州山城入り口にある案内板です。 この城は漢江に沿う独立丘陵にある要害です。 城内には土塁・記念館等があります。 |
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西生浦城・石垣 韓国東海岸沿いにある西生浦城です。 加藤清正が築城し、長くその居城となっていました。 主戦派として三成と対立した清正も、戦い末期には、 この城に押し込められた状態となりました。 |
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西生浦城・本丸付近 同じく西生浦城の本丸付近です。 城は綺麗に整備されています。 縄張りの巧緻さと石垣の見事さは、さすが築城名人 清正の城と思わせます。 |
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順天城・本丸台 日本側西側の拠点・順天城本丸です。 本丸以外にも雄大な遺構が残っています。 この城は、小西行長が戦いの最後まで在城 した城です。 |