川越城

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場所・・・埼玉県川越市郭町2-13

享徳3年(1454) の享徳の乱に際し、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏が古河公方に対抗する拠点として岩槻城、江戸城と同期に家

臣の太田道真とその子道灌によって長録4年(1457)に川越城が築かれた。以後約80年間六代にわたって君臨し、扇谷上杉定

政の代には太田道灌の活躍によって、主家山内上杉氏をしのぐほどになった。しかし、道灌は文明18年(1486)に主家の扇谷

上杉定政に殺されてしまう。其の後山内上杉氏と対立を深め争っていたが、天文6年(1537)新興勢力の北条氏と三ツ木での戦

いに敗れ扇谷上杉氏は松山城に逃れた。天文10年川越城は扇谷上杉氏の攻撃を受けたが、城代息為昌が防戦し、守りきった

。同11年為昌没後には福島綱成が城代となった。同14年川越城奪還をめざし、山内上杉憲政と扇谷上杉朝定は古河公方足利

晴氏と結び、8万の軍勢を率い、川越城を包囲、しかし攻める事なく持久戦となった。同15年4月20日、北条氏康が自ら8千の兵

を率いて夜襲を行い 上杉軍を攻撃。結果、北条軍は勝利し、 朝定は討死、憲政は上野平井城に敗走、古河公方は下総古河

へ退却した。この合戦は日本三夜戦に数えられる「川越夜戦」である。合戦後は、重臣大道寺盛昌を城代として北条氏の支配

を固めた。天正18年(1590)川越城は豊臣秀吉の関東攻略により、前田利家に攻められ城代大道寺隼人は降伏し、無血開城し

た。其の後関東には徳川家康が入部し、川越城は酒井重忠が封せ゛られ一万石を領した。寛永15年(1638)喜多町から出火し

た大火で喜多院、仙波東照宮を含め城下の3分の1程が焼失した。藩主堀田正盛が大火直後に信濃転封後、喜多院、仙波東

照宮の再建を将軍より命じられ、同17年に完成した。寛永16年松平信綱が藩主になると、大火後の城下町の復興と城の拡張

を行った。改修された川越城はその後明治維新まで基本的にかわらなかった。改修は北東側の新曲輪、西側の外曲輪、南東

の田曲輪、南大手の丸馬出し、西大手の馬出しの増改築であった。川越城は、本丸・二の丸・三の丸の他、三の丸西側に中曲

輪が、中曲輪の西の外曲輪に接続して南は田曲輪、東から北は新曲輪があった。三の丸の南は八幡曲輪で囲まれた馬場にな

っており、外曲輪は追手曲輪と中曲輪に分かれ、幕末期の追手曲輪には会、衆判所、郡代所があった。田曲輪内には、三芳野

天神祈願所と高松院があった。櫓は三基あり、丸本に三重の富士見櫓と二重の虎櫓,二の丸には菱櫓があった。

 


山門

喜多院


 

仙波東照宮

 


中院

東照宮の南に位置し、昔は星野山無量寿寺、北院・中院・南院の中心であっただけに、

趣のある静かな境内である。本堂前にはみごとな「しだれ桜」があり、是非参拝したい

所であ。ここには島崎藤村の義母、加藤みきの墓があり、藤村が義母に贈った茶室

「不染亭」が移築され、藤村書の「不染の碑」がある。


 

東明寺

 


 

霧吹きの井戸

現在、川越市立博物館のエントランスの前に古い井戸が残されている。これを塩吹きの

井戸という。昔、川越城は、たびたび戦の行なわれた場所であった。何時もは井戸に

ふたをしているが、敵が攻めて来て城が危ないと言う時はに井戸のふたをとります。

すると井戸の中より霧が吹出し,あたり一面にたちこめ,城のまわりを濃霧が包み城

を隠してしまったといいます。そうすると、敵は仕方なく引き上げてしまったといいます。

敵が去った後は、またもとのように眺めのよい城になったといいます。こうしたことから、

川越城のことを「霧隠城」とも呼ばれました。

 


富士見櫓跡

御巌神社が祀られているこの高台は、かっては川越城の富士見櫓が建てられていた

ところである。櫓は矢倉とも書いて、合戦の祭に物見として、あるいは防戦の足場として

、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣のなかつた川越城

には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、

城の中で一番高い所にあった富士見櫓天守閣の代わりとなっていたと思われる。

今日では木々や建物のために、すっかり眺望も失われてしまったが、その昔はこの高台

に立てば、富士見櫓の名のとおり遠く富士山まで望めたことであろう。元来城の構造および

建造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模

はわからない。江戸末期の慶応二年(1866)に川越城を測量した時の記録によれば、この

富士見櫓は長さ八間三尺(約15メ-トル)幅八間(約14メ-トル)あったと記されている。

 

 


三芳野神社(みよしのじんじゃ)

三芳野神社は、旧川越城内天神曲輪にあって「お城の天神様」といわれている。

四方が土塁と堀とに囲まれたこの地は、「伊勢物語」の著者である在原業平が

訪れたという「入間の郡三芳野の里」といわれる。また、この細い参道は、童歌

「通りゃんせ」の歌詞の発祥地とも言われている。三芳野神社社殿(県指定

化財)は、寛永元年(1624)、酒井忠勝が幕府の命を受けて造営したものである。

本殿・拝殿ともに入母屋造りで、社殿各部の太い木割等に壮麗な桃山時代が繁

栄されている。                       所在地 川越市郭町二丁目

 

 


訪問記

 

川越は、史跡や古い建物などが良く保存、整備、管理されていて、

三度も訪れているが飽きることがない。 中世における城取り合戦

は、関東における支配関係の大きな転換となったよう思える。又

訪れてみたい場所である。