日本三大東照宮の一仙波東照宮


 

1、  鎮座地  埼玉県川越市小仙波町1-21-1

1、  御祭神  徳川家康公

1、  東照宮祭典  1月17日、4月17日、8月17日

「由緒」

仙波東照宮は、喜多院第27世住職天海僧正が徳川初代将軍家康公を祀ったものである。家康公は元和2年4月17日

 75歳で薨去されると、一旦、静岡県の久能山に葬られたが、公の遺言に従って、二代将軍秀忠は、元和3年亡父家康

の遺骸を更めて日光に移葬した。そのとき久能山から日光に至る道中、同年3月15日出発して、継継と道中の各宿に

泊まりとまりして、、同23日仙波喜多院の大堂(薬師堂、のち東照宮本地堂とも言った)に到着した。此所で天海僧正

親しく導師となって、同26日まで、実に四日間、衆僧を集めて、丁重な法要を厳修した。この長い法要を済して、次宿行田

忍に御送りして後、天海僧正は家康公在世の渥恩を謝せんが為、且つは遺柩止留の跡として、家康公の像(高さ八寸八

分)を作って、大堂に祀ったのが、元和3年9月16日で、ここ東照宮の初めである。かくして天海僧正は、この東照宮を広く

大方の皆様に崇拝して貰う為め、現在のこの地に五間の丘陵を築きあげて、立派な社殿を造って、寛永10年11月16日遷

祀した。同年12月24日後水尾天皇は宸翰御神号として「東照大権現」の勅額を下賜された。ところが寛永15年1月28日、

川越街に大火起こり、仙波の神社、堂塔、門前屋敷まで延焼してしまった。之を聞いた三代将軍家光は、直に東照宮再

建の計を立て、同年3月川越城主堀田加賀守正盛を造営奉行に命じ、天海僧正を導師として、寛永17年5月竣工したも

のが現在の社殿である。この時以来、社殿並びに神器等は総て幕府の営む所となったが、元々自祭であって、祭資を預

かなかったので、喜多院第29世住職周海僧正(天海の高弟)は祭典の完備を期して、寛文元年松平伊豆守信綱(川越城

主)を介して以聞、同年3月、四代将軍徳川家綱は、大仙波の地200石を祭資に供せられた。爾来幕府の手で属々修理を

加えられたが、弘化4年が最も大修理であった。かして明治2年諸領一般上地の令に依って社領を奉還し、逓減制となり

、同年又神仏分離令があって爾来喜多院の管理を離れた。当社は当地小仙波の鎮守ではないから氏子がなく、参拝者

も寥々たるものであった。そうした中で古い社殿は破損する。玉垣は朽廃する。捨て置けないので、昭和6年8月から同年

8月にかけて、奥州白河から石材を切り出させて、石正門、石玉垣の新築、石段階敷換等をなし、同13年6月から同8月に

は拝殿土台入替、柱の根つぎ工事を行い、寛永17年以来の社殿の建築様式を損せずに行いましたところ、やがて大東

亜戦争となった。幸い川越市は戦火を免れたので喜多院、東照宮の建造物は徳川初期のものとして、国宝調査会の認

むる所となって、昭和20年10月から文部技官大岡實工学博士、同乾兼松先生の調査するものとなり、昭和21年11月

29日上記の通り、建造物全部が国宝に指定され、昭和25年8月29日付国指定重要文化財となったが未だ修理に取りか

からないでいたところ、昭和34年9月26日台風15号襲来、玉垣外の大木が倒れて、神殿の屋根から唐門を破損、瑞垣を

押し潰してしまったのが契機となって、総ての建造物の総修理の運びとなって、昭和36年3月から昭和38年3月にかけて

復元修理され、文部省はじめ、県や市から補助金を頂いて、今や立派に復元修理され、寛永17年再建当時の社殿その

ままを忍ぶ事が出来るようになった。最近文化財に対する世間一般の関心がだんだん高まって、文化財を鑑賞旁々神社

を参拝するのもが、頗る多くなったことは喜ばしいことである。

 


重要文化財・建造物鐘楼門

「星野山御建立記」にやると、寛永10年(1633)に東照宮の側に鐘楼門を建てたと記録

している。その頃の東照宮は現在の慈眼堂の位置にあった。そして鐘楼門再建の記録

がないところをみると、寛永15年(1638)の大火に焼失を免れたのではないであろうか。

桁行三間(5.45m)、梁間二間(3.64m)、楼閣造袴腰付入母屋造で本瓦葺の屋根を

もっている。縁には勾蘭をめぐらし、壁面には前面に竜、背面に鷹の木彫が二個づつ

はめこんである。またこの鐘楼に懸けられている銅鐘には元禄15年(1702)の銘がある。