新宿さまよい歩き 4 追分け 今回は甲州街道(歴史用語では甲州道中)と青梅街道との交差を実感するため、甲州街道を通って天龍寺から来ました。新宿駅東口から伊勢丹・三越の方向に進む「新宿通り」は青梅街道(最初は成木道)です。甲州街道と青梅街道の接点、逆に云えば、江戸城→四谷大木戸→内藤新宿と来て、二つに道が分かれるところ、そこが「追分」でした。 牛や馬が主要な交通・運搬手段であった頃、二つの道のどちらかに馬や牛を追分けるところから、こう呼ばれたとされます。現在の新宿3丁目、伊勢丹・丸井の交差点あたりになります。明治通りが太く交差するため、追分けの実感はありませんが、「甲州道中分間延絵図」には素朴な追分けが見られます。そして、江戸切絵図から明治、大正、昭和初期の地図を見比べると、位置は変わっていないのに、周辺の変化の著しさには驚くばかりです。
現在では「追分交番」と「追分団子」にその名をとどめます。 内藤新宿 江戸時代のことですが、天竜寺の門前を含め、追分けから、これから訪ねる四谷大木戸の間に、甲州道中を挟んで両脇に形成されたのが内藤新宿です。元禄11年(1698)6月、甲州道中の第一宿として開かれました。開いたのは浅草の住人高松喜六他4人で、上納金5600両を幕府に納めることが条件でした。財政難の解消が幕政の大きな課題であったときです。 江戸時代の地誌・新編武蔵風土記稿(文政11年(1828)完成)は次のように伝えます。 『内藤新宿は甲州街道宿駅の一なり、御打入の後内藤大和守に給ひし屋敷の内を、後年裂けて上地なりし頃も、萱葭原なりしを、元禄十一年(1698)江戸浅草阿部川町の名主喜兵衛及ひ浅草の町人市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛と云者、願上て今の如く幅五間半の街道を開き、左右に宿並の家作をなし、喜兵衛は喜六と改め、五人共に移り住せり、 元内藤氏の屋敷なりしゆへに其儘内藤新宿と名付、江戸より多摩郡上下高井戸まて人馬継立の駅亭とせしか、享保三年(1718)宿駅を止められて御料の町場となりしに、明和九年(1772)安藤弾正少弼道中奉行たりし時、元の如く宿駅に建てられ、定人足二十五人、馬二十五匹を出して、上下上高井戸宿へ継立せり、又同郡青梅道中中野村、相州矢倉沢往来世田谷村へも継送れり……(一部略) 日本橋より二里、東は四谷大木戸、武家屋敷、東南は内藤大和守下屋敷、南は又武家屋敷、四谷天龍寺境内(現新宿四丁目)、坤は同寺門前地にて、西は角筈村、北は大久保百人屋敷、四谷太宗寺門前……東西九町余、南北一町足らず、皆家並をなし、七百三十八軒に及へり、・・・』 大きい画像は「内藤新宿図」へ 安政年間(1850年代)の切り絵図から復元した内藤新宿の概略図です。左上の追分けから右端の四谷大木戸の近くまで、大名や武家屋敷に囲まれるように町場が造られています。追分け寄りを「内藤新宿上町」として、以下「中町」「下町」と三つに区切られ、寺にはそれぞれ門前町が付けられています。寺は町人に門前を貸して、寺の維持管理費を生み出したのでした。 宿は「伝馬継立」が最初の目的でした。大名や武家の旅行、情報・荷物運搬が主とする役目でした。付随して甲州街道の交通、物流とともに多摩地方の野菜や木材・薪炭などの物産が運ばれ、多摩へは肥料が運ばれました。宿には、旅籠と米糠を扱う店、青物屋が混在していたようです。 最初はこのような状況でしたが、やがて飯盛女を置く「宿場」の気配が濃くなったようで、むしろ一種の遊郭の様相を帯びてきます。 吉原は鳳凰 四谷とんびなり などと、吉原や他の宿より一段下に位置付けられている間はともかく、次第に繁盛してくると、吉原をはじめ他の宿が黙っていません。内藤新宿の縮小や廃止の動きが出てきます。これが、新編武蔵風土記稿の云う「享保三年(一七一八)宿駅を止められて」で、内藤新宿は突然、廃宿になります。その背景がまた面白いです。 突然の廃宿 「大八事件」とい う旗本と遊女、旅籠屋の下男の話が伝わります。渡辺英綱氏が「新編 新宿ゴールデン街」で次のように紹介しています。 『四谷大番町(現在の大京町)に住む四百石の旗本内藤新五左衛門の弟に大八なる者がいた。名前からみると大柄な体格を想わせるが、実際は小兵であったらしい。そのくせ堂々たる三尺の大刀に鯨雪駄ばきという格好で、新宿までよく遊女買いにかよっていた。 これが原因で廃宿になったとする伝承ですが、表向きは、「旅人が少なく」「猥りなること」が理由とされます。甲州道中の交通状況、飯盛女・新しい遊興の地の隆盛、吉原からの願い出(他の2宿も含め縮小)などいろいろ背景が考えられますが、丁度、八代将軍吉宗が就任(享保元年)し、町奉行に大岡越前守が任用されていることから、幕政の転換によることも考えられます。 再開 再開への熱心な運動が続けられたらしく、明和9年(1772)再開が許可されています。田沼意次が老中格になって1年後であることに注目です。再開後は、アッと云う間に旅籠屋が並び(廃駅当時29軒→再開38軒)以後、明治末から大正初期までその雰囲気は続いたようです。 遊廓考は 「甲州街道旅籠屋飯盛女あり、明和(一七六四〜一七七一)、安永(一七七二〜一七八○)のころは殊の外盛なり…(中略)……美服を着し紅粉の装いあたかも吉原におとらぬ春花を置きたり。・・・」としています。 ガイドブック 新宿区の文化財(1)は『内藤新宿は上・中・下町に分かれており、問屋場・旅籠屋・茶屋が軒をつらねる宿場町としてにぎわっていた。品川・千住・板橋とともに、江戸四宿の一つとして発展し、一七一八(享保3)年から一七七二(明和九)年の間に一時期廃駅の期間もあったが、明和九年の宿駅再開によって再び活気をとりもどしていた。 一七七七(安永六)年の内藤新宿の人口は一七六九人であり、男一〇六〇人、女七〇九人であった。男が多いのは宿駅関係の人足が多かったからであり、出人数三六人に対して入人数が三二六人もあり、歓楽街化したところへ近在から流れ込んだものが多いことを物語っている。飯盛女の数も一五〇人を置くことが許され、旅籠屋・茶屋が順次増加した。』(p67) としています。また、高松文書には 「飯盛女を抱える旅籠屋は、寛政一一年(一七九九)には、上町(新宿3丁目あたり)には、二〇軒、中町(同2丁目あたり)に一六軒、下町(同1丁目あたり)に一六軒あり、中には大間口之旅籠屋追々建増仕るべく候」とあります。 江戸名所図会の内藤新宿を子細に見ると旅籠屋の床に女性が集まり、商人や芸人と声を掛け合い、馬に乗る人、荷物を担ぐ人、餅をつく人、俵をかつぐ人など道行く雑多な人々が描かれています。この情況が、ご一新を経て明治になってどのようになったのか興味あるところです。 夜店にさらされる夏目漱石 大名や徳川の家臣は国に帰って、周辺は茶畑や植木が植えられても、ある程度周辺からの集客力があった宿は余り変化はなかったとされます。そして、四谷から追分けにかけては旅籠屋・茶屋と一緒に夜店が密集したようです。慶応3年(1867)生まれの夏目漱石は、生後一時里子に出されましたが、「硝子戸の中」で次のように書いています。 『・・・私は両親の晩年になつて出来た所謂(いわゆる)末ツ子である。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云つたとかいふ話が、今でも折々は繰り返されてゐる。単に其為ばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里に遣つてしまつた。其里といふのは、無論私の記憶に残つてゐる筈がないけれども、成人の後聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世にしてゐた貧しい夫婦ものであつたらしい。 私は其道具屋の我楽多と一所に、小さい笊(ざる)の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝(さらさ)れてゐたのである。それを或晩私の姉が何かの序(ついで)に其処を通り掛つた時見付けて、可哀想とでも思つたのだらう、懐へ入れて宅へ連れて来たが、私は其夜どうしても寝付かずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいふので、姉は大いに父から叱られたさうである。・・・』((筑摩現代文学大系13「硝子戸の中」p476) 夜店の中を歩く林芙美子 『四谷の駅ではとっぷり暗くなったので、やぶれかぶれで、四谷から夜店を見ながら新宿まで歩く。家へ帰る気がてんでしないのだ。・・・(一部省略) ほていや=布袋屋の建設は大正15年(1926)とされます。その工事の最中に前を通りかかり、『昔は女郎屋であったとかで』として、女郎屋は廃業か転業をしている様子で、付近の『家並がどっしりしている。』と書いていますので、まだ雰囲気が残っていることを伝えます。今では想像もつかない景観です。 夏目漱石や林芙美子が夜店の明かりを見た
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