新宿さまよい歩き 3

甲州街道の高架下をくぐります。バンザイ通りと呼ばれた道路が続きます。
高架の上に上がった方がよく見えます。

中央を通るのがバンザイ通りで右側が高島屋新宿店、左側が新宿4丁目(旭町)
右側一帯は江戸時代四谷犬小屋のおかれていたところ
左側はこれからの話題豊富な「旭町」です。

高架の南側の下、細い路地は玉川上水を暗渠にした跡。
路地の右側を「堀端通り」と呼びました。

下に降りて、鉄道との交差をなくすため甲州街道を高架にした地下道をくぐります。

玉川上水は線路の下をくぐって、地下道の手前を流れていました。
江戸時代、画像右側手前には自身番があったといいます。

 林芙美子(旭町)

 この高架の上で、近松秋江氏の子守として雇われた林芙美子が、2週間で暇を出されては悲嘆にくれ、また、腹を立てました。

 (十二月×日)
 ひまが出るなり。
 別に行くところもない。大きな風呂敷包みを持って、汽車道の上に架った陸橋の上で、貰った
紙包みを開いて見たら、たった二円はいっていた。二週間あまりも居て、金二円也。足の先から、
冷たい血があがるような思いだった。(「放浪記」(新潮文庫p20)


 くぐると新宿4丁目、それ以前は旭町と呼ばれました。左に曲がって玉川上水を暗渠にした道を進みます。

現在の堀端通り。

  道路になっているところが玉川上水で画像右側に上水に面して道路があり、大正から昭和にかけて多くの旅館、木賃宿がありました。林芙美子が泊まります。

(十二月×日)
 夜。
 新宿の旭町(あさひまち)の木賃宿へ泊った。石崖の下の雪どけで、道が飴(あん)このようにこねこねしている通り
の旅人宿に、一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に豆ランプの
ついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない
私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いてみた。

  みんな嘘っぱちばかりの世界だった
  甲州行きの終列車が頭の上を走ってゆく
  百貨店(マーケット)の屋上のように寥々(りょうりょう)とした全生活を振り捨てて
  私は木賃宿の蒲団に静脈を延ばしている
  列車にフンサイされた死骸を
  私は他人のように抱きしめてみた
  真夜中に煤けた障子を明けると
  こんなところにも空があって月がおどけていた。
  みなさまさよなら!
  私は歪(ゆが)んだサイコロになってまた逆もどり

  ここは木賃宿の屋根裏です
  私は堆積された旅愁をつかんで
  飄々(ひょうひょう)と風に吹かれていた。

 林芙美子が「放浪記」(新潮文庫p21)で書いた一節です。芙美子が最初の恋人・明治大学に学ぶ因島出身の岡野軍一を追って尾道から東京に出て来たのは大正11年(1922)4月でした。雑司ヶ谷墓地付近で同棲して、さまざまな職業について卒業を待ちます。しかし、翌年の3月、岡野は大学を卒業しましたが、家庭の事情もあったのでしょう、芙美子との約束を破り郷里に戻ってしまいました。そのような中で書かれたこの一節、大正11年とすれば、もうその暮れに、岡野とは破綻が生じていたのでしょう。川本三郎氏は大正11年とします(林芙美子の昭和)。

 木賃宿はどこにあったのでしょうか。芙美子は「私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書」いて、「甲州行きの終列車が頭の上を走ってゆく」音が聞こえたとします。地元に住んだ作家、野村敏雄氏は、この文面から、堀端通りにあった和田屋、万年屋、相模屋のいずれかだろうとしています(新宿裏町三代記 p252)。

このビル群の周辺に和田屋、万年屋、相模屋がありました。

 放浪記ではもう一度、旭町の木賃宿が出てきます。

(一月×日)
 からりとした上天気一眼もくらむような光った雪景色。四十年配のいちょうがえしの女が、寝
床に坐ってバットを美味(おい)しそうに吸っている。敷布もない木綿の敷蒲団が垢光(あかびかり)に光っている。新
聞紙を張った壁。飴色の坊主畳。天井はしみだらけ。樋(とい)を流れる雪解け。じいっと耳を澄まして
いると、ととん、とんとん、ととんと初午(はつうま)のたいこのような雪解けの音がしている。皆は起き出
してそれぞれ旅人の身づくろい。私は窓を開けて屋根の雪をつかんで顔を洗った。レートクリー
ムをつけて、水紅を頬へ日の丸のようになすりつける。髪にはさか毛をたてて、まるでまんじゅ
うのような耳かくしにゆう。耳がかゆくて気持ちが悪い。

 烏(からす)が啼(な)いている。省線がごうごうと響いている。朝の旭町はまるでどろんこのびちゃびちゃな
街だ。それでも、みんな生きていて、旅立ちを考えている貧しい街。(新潮文庫p382)

 この日、芙美子は母親を宿に残して角筈を振り出しに勤め先を探しに歩きます。そして、「金の星」に決まり、その晩から「御出勤」となります。「省線がごうごうと響いて」いて、年譜では大正15年(1926)野村吉哉と別居、女給をしていますので、この年のことでしょう。

 旭町は天龍寺の門前で、この時期の日本社会が生み出した貧しい人達が住む町でした。むしろそのようにし向けた政策がありました。野村敏雄氏の云う明治20年警視庁が定めた「宿屋営業取締規則」です。

 『この取締規則の中で警視庁は、東京府内の木賃宿営業地を数カ所に制限し、現営業者も新規営業者も指定地以外での営萎禁止した。その結果、各所に分散していた木賃宿がすべて指定地へ移転を命ぜられたが、このとき南町は西郊郡部における木賃宿営業区域に指定されたのである。』(野村敏雄 新宿裏町三代記 p11)
 ※南町は旭町になる前の町名(大正9年南町から旭町になる)

 林芙美子が描く情況はこうしてつくり出されて、第二次世界大戦による強制疎開で取り壊されるまで続きました。 また、放浪記の世界とは違った、第二次大戦後の新宿の一面を描いた「骨」の主人公「道子」が自らの身を売る最初の夜 を過ごした旅館の設定された場所でもあります。

取り壊される前に、町は都市計画の影響をモロに受けます。
旭町(新宿4丁目)は天龍寺の門前で、本来四角な町でした。(内藤新宿図
それが道路一本で三角の町に分断されました。環状五号線、いわゆる明治通りの通過です。
(大正8年起工、昭和9年全線開通)

このため、木賃宿はなくなり、林芙美子の体験は文学上のものになりましたが
ここで育った独特の人情は壊滅となりました。
周囲をぐるりと歩いて、画像左側の部分にある天龍寺の付近にわずかにしのべます。

画像左側の道路が新宿駅・高島屋との境、右側が明治通り。明治通の右側に天龍寺があります。

天龍寺・時の鐘

 堀端通りを新宿御苑に向けて進むと、上記の明治通に達します。追分けがそのまま渋谷方面にのびて旭町(新宿4丁目)を斜めに横切ります。もの凄い都市計画があったもので、ほぼ四角い形であった旭町は完全に三角の町に分断されました。その一角に、豪快な山門があります。葵の紋章がつく天龍寺の山門です。

 徳川家康と関係の深い曹洞宗のお寺です。家康手彫りの位牌がある、二代将軍秀忠の母親の菩提寺と聞くと、凄いもんだと驚くばかりです。

 『天龍川に近い遠江国 倉見領西郷村(現在の静岡県掛川市)にあった法泉寺が前身で、この寺を菩提寺とする戸田忠春の娘が徳川家康の側室となり二代将軍秀忠を生んだため、家康の江戸入り後に牛込納戸町に移され、天龍寺と改めました。』(新宿歴史博物館 江戸名所図会でたどる 新宿名所めぐり)。

 『もとは牛込納戸町・細工町にあって将軍家と関係が深かったところから、寺地も一万二千坪余を拝領して、拾万石待遇の格式を許された曹洞宗寺院であった。家康の側室の西郷の局との関係で、一五九一(天正十九)年に遠州から江戸へ移ってきた寺である。その後、一六八三(天和三)年二月の大火によって類焼したので、替地を現在地にもらって移転してきたのである。その当時の追分けには、久世三四郎の与力屋敷があったのみで、まだそれ程の町並化はしていなかったようである。・・・

 宿駅との関係では西北の端に位置していたことから、当初は直接歓楽街との交渉は少なかったが、門前町屋も四九軒を数え、内藤新宿の拡大発展とともに一体化していったようである。』(新宿区の文化財(1)古文書p68)

 というように由緒が語られます。このお寺の門前町が旭町になりました。町人に敷地を貸して、そこから上がる地代収入が寺の維持管理の経費となっていました。江戸古図のどれを見ても追分けの正面にあり、追分けと一体となって内藤新宿の西の始まりになっていました。時を経るに従って次第に門前が細分化されてゆく様子がわかります。

 この寺にあって、含み笑いをするのが「時の鐘」・「追い出しの鐘」です。東京近郊名所図会が次のような話を伝えます。

 『時の鐘、天竜寺の鐘楼にて、もとは昼夜鐘を撞きて時刻を報せり。此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に当時は、天竜寺の六つで出るとか、市谷の六つで出るとかいいあえり。新宿妓楼の遊客も払暁早起きして挟を分たざるを得ず。因て俗に之を追出し鐘と呼べり』

 この鐘は、牧野備後守(茨城県笠間城主)が奉納したもので、明和4年(1767)に多摩郡谷保村の鋳物師「関孫兵衛」が作ったことが古文書に残されています。

 威厳のある山門は、意外に新しく、昭和12年(1937)から18年までの歳月を費やして作られています。戦前のオリンピック開催に湧いた頃で、先代の住職が造りました。それには、『きっとマラソンの選手が走るだろう。世界中の新聞記者もそれについてくるであろうし、・・・日本の伝統を盛り込んだ立派な山門を造ったら一つの東京名物ができるだろうと思い立ち』造ったそうです(野村敏雄 新宿裏町三代記 p17)。

 今は明治通に山門がありますが、もとは追分けから直接玉川上水を橋で越えて入るようになっていました。その入り口の脇に、後に訪ねる、成覚寺に移されている「旭地蔵」がありました。

雷電稲荷神社

 天龍寺の山門に戻り、明治通を伊勢丹方面に進むと明治通が甲州街道になる交差点に出ます。それを右に新宿御苑方面に曲がると、右側に雷電稲荷神社があります。

 現在、花園神社に合祀されていますが、明治代までの地図を見ると、もとは天龍寺と対(鎮守)の関係にありました。明治の神仏分離令で分離され、町民の管理になったとされます。

 江戸の神社は由来が面白く、古代・中世に遡る伝承と、徳川家に密接な関係を持たせるものとが入り混じります。野村敏雄氏は次のように紹介します。

 『その名のいわれは、むかし源義家が奥州征伐にむかう途中雷雨にあい、この社殿で雨宿りをしていると、どこからか白狐が一疋あらわれてきて、義家の前まできて頭を三度下げた。するとたちまち雷鳴が止み空が晴れあがった、という伝説からきている。

 「豊多摩郡誌」には『内藤新宿南町一番地にあり、祭神は宇迦之御魂命なり、当社はもと天龍寺の造立せる所にて、遠江の故地より移したるものなりと、或は云、源義家公当時の創建にして天明年間に再建せりと、社伝詳ならず』とある。』(同書p21)

 縁起もさることながら、この神社の痛快なのは、伊勢丹へ御輿のお見舞いをしたことです。昭和10年(1935)伊勢丹は隣にあった布袋屋呉服店を買収して現在の地に店を広げます。そんな時、

 『「・・・雷電様がちょいと伊勢丹までお入りになりたいそうだから、お入りねがうべえや」誰からとなくそうなったという。
 本気より脅し半分であったろうが、伊勢丹の対いにある日活映画封切館の帝都座の前までくると、そこで神輿を揉みに揉んだあと、端棒を空けて伊勢丹の正面入口ヘなだれこんだのである。伊勢丹側もこれにはあわてたらしい。進出まもないデパートとして、地元の祭礼で地元民ともめるのは得策ではないと考えたのだろう、すぐに然るべく手を打ったらしいが、こうした一種の無法が罷り通ったのも、祭りだからであった。・・・』(同書p258)

 相次ぐデパートの進出で、基盤を失う危機にあった地元の営業者と「シマ」の住人が一緒になって、雷電様の力を借りて「共栄」を主張したのかも知れません。

大正14年まで、雷電稲荷神社から玉川上水が四谷水番所に流れ
江戸時代にはその先に四谷大木戸がありました。



今回は天龍寺から追分けに向かいます。
(2003.10.29.記)

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