大地震 ★☆☆
(Earthquake)

1974 US
監督:マーク・ロブソン
出演:チャールトン・ヘストン、エバ・ガードナー、ジュヌビエーブ・ビジョルド、ジョージ・ケネディ

上:大地震により崩壊炎上するロサンジェルスの市街

まず邦題からです。「大地震」は、「だいじしん」と読むのか「おおじしん」と読むのか現在でもはっきりとは分かっていません。ガキンチョの頃、「だいじしん」と発音していたところ、マセガキの友達が「あれはおおじしんと読むのじゃ」などとしたり顔で言っていたのを、今でもしつこく覚えています。いずれにしても、「ぴあシネマクラブ」ではた行に分類されており、また、間延びした「おおじしん」よりは「だいじしん」の方がタイトルとしてはキマるので、五十音順インデックス上ではた行に入れました。邦題についてはそのくらいにして、「大地震」は、70年代に隆盛を誇ったパニック映画の一本であることは、誰でもご存知のことでしょう。ただこの作品は、テレビの27インチの小さなスクリーンで見ていると、いかにも迫力に欠けるきらいがあり、地震そのものよりも、チャールトン・ヘストン+エバ・ガードナー+ジュヌビエーブ・ビジョルドによるテレビドラマ的メロドラマが際立ちすぎ、テーマの割りに矢鱈にチマチマした印象を受けざるを得ません。しかも現在のようなコンピューターグラフィックスのなかった70年代の作品なので、現在の目から見ると、崩れ落ちる建物がダンボールなどのにせの素材でできていたり、セットがミニチュアであったりすることがあまりにもはっきりと分かってしまう点が気にならざるを得ません。とはいえ、劇場で見れば、そのような印象のいくつかは改善されることは確かでしょう。劇場といえば、地震の迫力を増すために、低音域の振動を利用するセンサラウンドなる音響効果が用いられている点が当作品の公開当時のウリだったはずですが、残念ながら個人的にこの作品を劇場で見たことはなく(また劇場によっては音響施設にセンサラウンド用の改装が施されずに上映されていたところもあるようです)、またセンサラウンド方式そのものも「ジェット・ローラー・コースター」(1977)などの少数の作品に適用されたのみで80年代まで生き残れなかったこともあり、センサラウンド方式なるシロモノにどれほどの効果があったのか実体験したことはありません。いずれにしても、「肉の蝋人形」(1953)のレビューでも述べたように、映画というメディアには3Dや低音域の振動効果などのギミックはどうやらほとんど通用しないと考えた方がよさそうです。しかしながら、「大地震」でそのような試みをせざるを得なかった理由は、理解できないこともありません。というのも、地震の恐怖は、まさに揺れにあり、オーディエンスに視覚印象のみで地震の恐怖を実感させるのはかなり困難だからです。確かに、ナマズの巣の上に住んでいるも同然の我々日本人は、画面に映っている建物がブルブル震えるのを見ただけでも、自分の過去の地震体験を思い起して顔面蒼白になること請け合いであったとしても、たとえば北部ヨーロッパや、あるいはアメリカでも東部地域であればほとんど地震は起こらないはずであり、そのような地域に住むオーディエンスにとっては、画像のみで「大地震」という特殊な自然現象の実感を得ることはできないはずです。その点では、この作品に限っていえば、センサラウンド方式は必然的な試みであったのかもしれません。とはいえ、地震に対する恐怖感の真のエッセンスは、揺れそのものよりも、揺れがもっと大きくなるのではないかという心理面への効果にあります。その点が映像上でうまく表現されているか否かは、作品評価の大きなポイントになるはずです。心理面への効果というはこういうことです。たとえば満員の通勤電車がポイントを通過する際に発生する揺れは、震度に換算すればかなり大きな地震の揺れに匹敵するケースもあるはずですが、それによって能面のようにクールな顔を乱す乗客は誰一人としていないはずです。それは、電車が激しく揺れたからといって脱線することなどあり得ないという確信を誰もが心の中に抱いているからです。それに対して、たとえばポイント通過を100回繰り返せば1回は電車がひっくり返るというのであれば、誰も落ち着いて電車に乗ってなどいられないでしょう。地震によって引き起こされる恐怖感とは、まさにそのような種類の恐怖感なのです。因みに、魔送球の効果について問われた星一徹が、何回かに一度わざとランナーに送球をぶつければよいと考えた理由も、まさにここにあります(それ以前に、魔送球を投げるくらいならばストレートに一塁に送球した方がアウトにできる確率は高いのではないかという至極当然の疑問がまず解決される必要がありますが)。ということで、「大地震」を見ていて地震王国の日本の住人たる小生の心胆を寒からしめたのは、明らかにダンボール製であることが分かる家屋が坂を転がり落ちるシーンでもなければ、明らかに軽い素材でできていることが分かる壁が崩れて人々の頭上に落ちてくるシーンでもなく、また60年代の円谷プロの怪獣映画を彷彿とさせる明らかにミニチュアであることが分かるダムの決壊シーンでもなく、実は、チャールトン・ヘストン&エバ・ガードナー扮する夫婦が夫婦喧嘩をしている部屋が、大地震の予兆となる小さな地震でガタガタと揺れる冒頭付近のシーンなのです。というのも、大地震で大都会が崩壊していくわざとらしくド派手なシーンよりも、そのようなシーンにはリアルさがあり、地震体験を豊富に持つ日本のオーディエンスには、えも言われぬ不安感を誘うだけのリアルなコワさがあるからです。つまり、心理面での恐怖がうまく表現されていない限り、地震を扱った映画としては、失格であろうということです。その意味では、たとえば超ド級の地震に見舞われてビルが揺れまくっているのに、人々がわれ先にエレベーターに駆け込むシーンなど、首を傾げざるを得ません。勿論、震度4より大きな地震に見舞われた経験がないので断定はできませんが、そんな折に人はエレベーターに乗ろうとするものでしょうか? パニックで見境がなくなっているとはいえ、心理的にあるいは本能的に、エレベーターのような閉塞された空間は避けようとするのが普通なのではないでしょうか。監督がベテランのマーク・ロブソンであるだけに、もう少し適確な表現方法があったのではないかという印象を受けざるを得ません。それにしても、「十戒」(1956)のモーセ、「ベン・ハー」(1959)のタイトルロール、「エル・シド」(1961)のル・シッドなどスペクタクル巨編では常にいいところどりを繰り返してきたチャールトン・ヘストンが、ここではパニック対策のスペシャリスト、ジョージ・ケネディに存在感で劣り、あまつさえラストシーンでは浮気の代価を支払わされるかのごとく、オバタリアン化の著しいエバ・ガードナーとともに泥水の中にブクブクと沈んでいく様子には、昔日のはかない栄光が偲ばれ、チャールトン・ヘストンのファンは涙なくしては見られないことでしょう。その後は全米ライフル協会会長の椅子が待っているだけでした。ということで、内容的にはイマイチな作品ではあれ、70年代のパニック映画の一本として、ことに地震王国日本のオーディエンスには興味が惹かれる作品であることには間違いがないでしょう。いずれにせよ、地震がテーマの映画は、他にはほとんど存在しません。


2009/05/26 by Hiroshi Iruma
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