黒い罠 ★☆☆
(Touch of Evil)

1958 US
監督:オーソン・ウェルズ
出演:チャールトン・ヘストン、オーソン・ウェルズ、ジャネット・リー、エイキム・タミロフ

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<一口プロット解説>
メキシコの麻薬捜査官バルガスは、立ち寄ったアメリカの国境の町で、車が突然爆発するのを目撃し、捜査を開始するが、やがて地元アメリカの刑事クインランの捜査に疑問を抱き始める。
<入間洋のコメント>
 「黒い罠」は、フィルムノワール衰退期の傑作ノワール作品としてしばしば言及される作品であり、この作品を持ってフィルムノワールはジャンルとしての使命を終えたと見なす評論家すらいるようです。勿論、使命を終えたとは、象徴的な意味合いにおいてであり、フィルムノワールジャンルに分類され得る作品は、カウンターカルチャー時代を迎える60年代には個人的に知る限りではほとんど製作されなくなるとはいえ、70年代に入ると、いずれもカラー作品ながら、ロバート・アルトマンの「ロング・グッドバイ」(1973)、ロマン・ポランスキーの「チャイナタウン」、かつてフィルムノワール作品にしばしば主演したロバート・ミッチャムがフィリップ・マーローを演じている「さらば愛しき女よ」(1975)、マーティン・スコセッシの「タクシー・ドライバー」(1976)などでネオノワールとして装いも新たに復活します。いずれにしても、白黒がメインであった50年代までのノワール作品と、故意にでなければ白黒作品が製作されることのなくなった70年代以後のネオノワール作品は、分けて考えるべきであり、やはり元祖ノワールと呼べるジャンルは50年代で使命を終えたと考えるべきでしょう。個人的には、元祖ノワールが使命を終えた作品は、「Dark City」(St. Martin's Griffin)というフィルムノワールに関する著書のあるエディ・ミューラー氏に従って、実はあのヒッチコックの「サイコ」(1960)であると考えています。それも、作品の前半までです。つまり、「黒い罠」にも出演し、どうやらモーテルに泊まるとロクな目に合わないらしいジャネット・リー扮するマリオン・クレインが、シャワー室でノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)に惨殺されるあまりにも有名なシーンで、彼女の血とともにノワールジャンルも一緒に下水に流されてしまうのです。その点について、エディ・ミューラー氏が素敵に語ってくれますが、それについては、「サイコ」のレビューを参照して下さい。

 では、「黒い罠」はどうでしょうか。この作品をノワールという範疇には含めたくはないというのが、個人的な見解です。ノワールというよりも、むしろオーソン・ウェルズのエゴが肥大化して、ノワール作品のように錯綜してしまった作品と捉えた方が正解であるように考えています。確かに撮影アングルや照明効果などにノワール的な技巧が見て取れますが、彼の代表作「市民ケーン」(1941)で用いられたノワールにも応用されているはずの様々な技巧によっては、この名作が一般にはノワール作品とは見なされていないのと同じように、単なる技巧だけによって「黒い罠」をノワールであると分類するわけにはいかないはずです。そもそも、たとえプロットが錯綜していたとしても、登場人物の持つパーソナリティがノワールとしてはストレート且つクリアすぎるのです。たとえば、オーソン・ウェルズが巨体を活かして自ら演ずる悪徳刑事のクインランは(上掲画像中央参照)、あまりにもストレートに堕落しており、内面的な深みはそこには全く見出せません。しかも、奥さんが殺されたという前提がありながら、キャラクタースタディとしては全くそれが活かされているようには見えないのです。対する麻薬捜査官のバルガス(チャールトン・ヘストン)は、今度はストレートに清廉潔白すぎ、クインラン以上に内面の葛藤などとは無縁なのです。つまり、少なくとも登場人物に関しては善悪があまりにも明快に過ぎ、一般に善悪の境界が曖昧化されることの多いノワール作品とは全く異なる印象を受けざるを得ないのです。また、バルガスのアメリカ人の妻スーザンを演ずるジャネット・リーは、会社の金をネコババする「サイコ」のマリオン・クレインとは違って、ノワールスペシャルのファムファタルとは対極にあるような輪郭の明瞭なアメリカンガールを演じています。但し、登場人物に関して一点だけ興味深い点があり、それは汚職にまみれた悪徳刑事がアメリカ人であるのに対して、清廉潔白な麻薬捜査官がメキシコ人であることであり、これはプロテスタントのアングロサクソン系は勤勉であるのに対し、カトリックのラテン系は怠惰で堕落しているとするクリーシェとは全く逆であるようなイメージがあります。

 しかしながら、登場人物のパーソナリティとは異なり、プロット面ではかなり錯綜しているのは確かです。「黒い罠」は、およそ3分に渡る有名なトラベリングショットで幕が開きますが、このシーケンスがオーディエンスに与える明快でスムーズな印象は、5分後には全く消えているはずです。この作品を見ていつも思い出すのが、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」であり、コマーシャルにも使用されたことのある威勢のいい音楽が鳴り響く冒頭の数分間が過ぎると、「英雄の生涯」というタイトルに相応しからぬ晦渋な音楽が延々と続く(と少なくとも個人的には思っている)この曲の構成は、冒頭で明快なビジュアル表現によってオーディエンスに心地よい刺激を与えた後、後は一転して錯綜したプロットが延々と続く「黒い罠」を思い出させるに十分なのです。確かにフィルムノワール作品のプロットは錯綜する場合が多いとはいえ、それは登場人物の複雑なパーソナリティにも関連しているのであり、主人公の心理の揺れや、或いは悪漢やファムファタルの狡猾さがそこには反映されているのです。要するにフィルムノワールには、ドイツ表現主義の一部の要素が継承されているということです。それに対して、各登場人物のパーソナリティがクリアでありすぎる「黒い罠」の場合には、登場人物の心理面のあやがプロットに反映されているようには全く見えず、敢えていえば監督/脚本/主演を兼ねるオーソン・ウェルズの強引な力技であるように思わざるを得ない面があります。オーソン・ウェルズが演じている悪徳刑事は、確かに悪辣で堕落しているとはいえ、ペットフレーズとして「直感(intuition)」を連発する彼が、たとえば「深夜の告白」(1944)のバーバラ・スタンウイック演ずるファムファタルのような計算し尽くされた狡猾さを備えているようにはとても見えません。従って、数多くの人々に冤罪を着せ、今またバルガスの捜査を中止させる為に、彼の妻を誘拐してヤク中に仕立て上げ、仲間のグランディ(エイキム・タミロフ)を自らの手で絞め殺して彼女に殺人罪を着せるなどという手練手管を弄するクインランの姿には、どうしても信憑性があるように見えず、力技で強引にプロットが操作されているような印象を受けざるを得ないのです。

 イギリスの映画評論家アンドリュー・スパイサーは、「Film Noir」(Longman)の中で「黒い罠」に言及して、「黒い罠は、故意にオーディエンスを混乱させる映画であり、繰り返して見ても混乱が解消されることはなく、明晰さに対するオーディエンスの欲求をわざと阻むウェルズのシステマティックな方法を認めるのに役立つだけである(Touch of evil is a deliberately confusing, disorienting film and repeated viewings serve not to clarify the confusion, but to appreciate the systematic ways in which Welles deliberately frustrates a desire for lucidity)」と述べており、これには条件付きで同感できます。条件付きとは、「黒い罠」は確かにオーディエンスを混乱させる作品であるとはいえ、ストーリーの流れそのものについては一度見ただけでも難なく理解できるはずであって、そのような意味においてオーディエンスの混乱を招くことはないはずであり、混乱を招くのはむしろ前述したようなプロットの強引さの故であることを前提とした上でという意味です。スパイサーが挙げる例ではありませんが、再見した時に明らかになるプロットの強引さは、冒頭の有名なトラベリングショットの直後から早くも見出せます。それは、チョコレートソーダの為に寄り道をしてダイナマイトが仕掛けられた車が傍で爆発するのをたまたま目撃したに過ぎないにも関わらず、次の瞬間には、現場に残った旦那と別れて一人で歩いていたスーザンが手際よくグランディの家?に連れ込まれるシーケンスです。麻薬捜査官が往来で堂々と繰り広げるには余りにも不自然な冒頭の会話によって、確かにバルガスが麻薬捜査でグランディ一味を追っているらしいことは分かり、グランディがバルガスの奥さんを脅すこと自体は自然な成り行きであるように見える配慮がされているにしても、そもそも車の爆破と無関係であるはずのグランディの手下が、爆破にあわせてタイミングよく居合わせ、しかもバルガス本人であればともかく新婚ホヤホヤで顔が悪漢達に知られているはずのない奥さんをたちどころに見つけて親分の家に連れ込むなどまず不可能なはずです。またスパイサーは、「冒頭の3分ほどを占める有名な一連の流れるようなクレーンショットは、クリアな空間感覚を確立することがない(The fluidity of the famous continuous crane shot that occupies the opening three minutes does not establish a clear sense of space)」と述べており、これについては無条件に同感できます。或いはむしろ、「流れるようなクレーンショットで開始されるにも関わらず、クリアな空間感覚の確立に至ることはない」と訳した方が正確かもしれません。このような印象を受ける為に、有名な冒頭部分ばかりが話題になると、誤解を招くのではないかと思わざるを得ないのです。冒頭のビジュアルなスムーズさは、決して以後の展開のどのような側面をも象徴しておらず、意図的な誤誘導であるとすら見なせます。たとえば、クインランと盗聴器を隠し持ったメンジース(ジョセフ・カレイア)が油田やぐらが屹立する中を会話しながら歩き回るあとを、証拠をテープに収めようと受信機を手にして、橋の下の水際などを伝いながらクインランに見つからないようにバルガスが追跡するラストのクライマックスシーンなどは(上掲画像右参照)、ビジュアル面においてすら冒頭のスムーズさとは180度反対の不安定感をオーディエンスに与えます。

 このようなウェルズ一流のはぐらかしの手中にまんまとかかったかのように、かく述べるスパイサー自身のコメントにすら混乱が見られます。たとえば「作品の中心には、スーザンが泊まっている人里離れたモーテルになだれ込む10代のギャングに、彼女が実際にレイプされたか否かについての計算された不透明性がある(At the center of the film is a calculated opacity as to whether or not Susan was actually raped by the teenage gang who descend on her isolated motel)」などはその典型であり、ウェルズ本人がそうであるとどこかで述べていない限り、全く的外れな見解であると言わざるを得ないでしょう。恐らく、当作品を見てスーザンがレイプされたか否かなどという疑問は、単なるスケベか或いは検閲委員でなければ思い浮かばないであろうし、ましてやそのような疑問が作品の中心に位置するなどとは全く考えられないところです。またスパイサーは、「黒い罠」を
「バロック表現主義(baroque expressionism)」の頂点をなす作品であると述べていますが、これにも大きな疑問符が付きます。というのも、「バロック(baroque)」とは装飾過剰性というあくまでも表面に関わる様式を指すのに対し、「表現主義(expressionism)」とは根底にフロイト的な深さを指向する心理主義が前提とされるからです。すなわち、音楽に喩えれば、バッハやヘンデルとワーグナーやマーラーやブルックナーを一緒くたにしているようなものなのです。勿論絶対に両者が同居可能ではないとは言い切れませんが、いずれにしても個人的な見解では、深い心理面がほとんど感じられない「黒い罠」を、世間一般で言われるところの「表現主義(expressionism)」に分類するのは無理ではないかと考えています。それに対して、「バロック」に分類することは賛成できます。なぜならば、「黒い罠」はこれまで述べてきたようにビジュアルやプロットなどに表面上のねじれが数多く見られるからです。同様に、「Movie Love in the Fifties」(Da Capo Press)の中でジェームズ・ハーヴェイは、「黒い罠」のプロットに関して「バロック的な」という表現を用いており、どうやら「黒い罠」にはバロック的側面が見られるというのが一致した見解のようです。但し、個人的には、「バロック」よりはむしろ、種村季弘氏などが得意とする奇想的な様式「マニエリスム」の方が用語としてより適当であると考えています。そのようなマニエリスム的なねじれは、オーソン・ウェルズ固有の力技に由来しているのであって、決して彼がノワール的な規範に従ったが故に自然な成り行きとして発生したのではないのです。その意味では、エディ・ミューラー氏の以下のコメントが、個人的に「黒い罠」から受ける印象に最も近いものがあります。

◎「黒い罠」を見るのは、酢になりかけた年代もののワインを飲むかのようだ。酩酊と刺激とユニークさは確かにそこにある。だが、同時にはき気を催すような後味もある。彼の映画はオーディエンスを陶酔させ、時には壮麗ですらある。しかし、オーソン・ウェルズのハリウッドにおけるキャリアの掉尾を飾るには、あまりに苦い二日酔いを後に残す。彼は、20世紀の最も独創的な才能であり得たはずだが、制御不能のエゴと貪欲さが、酔わせはするががっかりさせる作品の中で自らの才能を浪費させるがままにまかせた。
(Watching Touch of Evil is like drinking vintage wine not long before it turns to vinegar. The headiness, th
e pungency and the uniquness are there, but so is a queasy aftertaste. The filmmaking is intoxicating, at times magnificent, but as a coda of Orson Welles's Hollywood career, it leaves a painful hungover. Welles could have been the most original talent of the century, but his uncontrollable ego and appetites left his ability squandered in exhilarating but disappointing productions.)


エディ・ミューラー氏は、「酔わせはするががっかりさせる作品(exhilarating but disappointing productions)」の中に「黒い罠」を果たして含めているのか定かではありませんが、いずれにせよ彼も、この作品の中にオーソン・ウェルズの肥大化した自我によって力技でねじまげられたところがあることを感じ取っているようです。要するに、良い意味でも悪い意味でも、「黒い罠」はフィルムノワール作品であるというよりも、オーソン・ウェルズスペシャルであると考えるべきだろうということです。従って、もし多くの評論家が考えているように「黒い罠」がフィルムノワールに分類されるべきだとすれば、それならば確かにフィルムノワールジャンルに引導を渡した作品の最大の候補の1つと見なされるべきなのは当然でしょう。なぜならば、陰影の扱いなどの一部の技法を除けば、およそフィルムノワールとは縁遠い作品だからです。因みに音楽はヘンリー・マンシーニが担当しており、確かに彼の全盛期の特徴はまだほとんど見られないとはいえ、フィルムノワールのバックグラウンド音楽を作曲するには最もふさわしくなさそうに思われる彼が音楽を担当できた事実は、この作品の何たるかを如実に物語っているようでもあります。正直に告白すると、個人的には「黒い罠」を見ることは多くはなく、国内でもかなり前からDVD版が発売されているにも関わらず、未だにVHS版しか持っていません。それは、やはり彼の演技も含めてあまりにもオーソン・ウェルズ色が濃すぎる為です。彼程のクセのあるカリスマになると、オーディエンスの好き嫌いも見事に分かれて当然でしょう。しかしながら、嫌いであるからといって、無視できないのがまた彼の偉大なところでもあります。とはいえ、「黒い罠」以後は急速に尻すぼみになるので、彼の最後の見るに値する作品であることにも間違いがありません。最後に付け加えておくと、オーソン・ウェルズのエゴが反映されてか、「黒い罠」には何人かのスターがカメオ出演しています。マレーネ・ディートリッヒは、カメオといえどもラストでかなり重要な役を演じていますが、短いシーンのみにジョセフ・コットン、ザ・ザ・ガボール、メルデセス・マッケンブリッジが登場します。また、モーテルの頭の弱い受付を演じているのは、デニス・ウィーバーのようです。

2008/12/06 by Hiroshi Iruma
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