トム・ジョーンズの華麗な冒険 ★★☆
(Tom Jones)

1963 UK
監督:トニー・リチャードソン
出演:アルバート・フィニー、スザンナ・ヨーク、ヒュー・グリフィス、ジョーン・グリーンウッド


<一口プロット解説>
貴族であるAllworthy氏の館である日突然捨て子が見つかり、Allworthy氏は彼をトム・ジョーンズと名付け育てるが・・・。
<入間洋のコメント>
 今年に入っていわゆる純文学が原作であるような作品を、「カラマーゾフの兄弟」(1958)、「白鯨」(1956)とレビューしてきましたが、今回はその第3弾としてイギリスの作家ヘンリー・フィールディングの代表作の1つである「トム・ジョーンズ」の映画化「トム・ジョーンズの華麗なる冒険」を取り上げてみたいと思います。純文学映画化作品のレビューを書くにあたって個人的に心の中で決めているお約束に従って、今回もまず原作を読んでからしかる後にもう一度映画化作品を見直してみました。読んだ原作は、ペンギンクラシックス叢書に含まれる「The History of Tom Jones, A Foundling」ですが、この作品もドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や、メルビルの「白鯨」に負けず劣らずの大長編であり900ページ近くあります。しかも英文がびっしりつまった900ページは量的には日本語より遥かに多くなるはずであると思われますので、まさしく読み甲斐があります。ヘンリー・フィールディングは18世紀の作家であり、まあ日本で言えば江戸時代の真っ盛りの頃にあたる時分に活躍した人でした。それに関して1ついつも不思議に思うことがありますが、それは日本で言えば江戸時代の真っ盛りにあたる時代に書かれた作品がほとんど現代英語と変わらない様式で書かれているのは(とはいえどもたとえばshowingがshewingになっていたりなどと多少スペルが違うケースがあったりするのと、ドイツ語と同じように固有名詞ではない普通名詞までも全て先頭文字が大文字化されているというような些細な違いはありましたが)、それが現代英語訳ではないとすれば随分日本とは事情が違うなという気がすることです。これはフランス語にしても同様であり、最近はフランス語の勉強を兼ねてユゴーやデュマの作品をシコシコと読んでいますが、フィールディングよりは1世紀後の作家であるとはいえ日本で言えばやはり江戸時代の後期から末期にあたる頃に活躍していた彼らの文章が現代フランス語とほとんど変わらないので、ひょっとしてこれはある程度現代語に修正されたバージョンを読んでいるのかななどと訝ったりもします。なにしろ日本語の場合明治時代の文章ですら読みにくく、高校時代古文漢文を毛嫌いしていた私めは江戸時代の文章など到底読めないことを考えてみると、日本語との相違に関してどうしても不思議に思わざるを得ないのです。

 ということで、いつものようにさっそく話が撚れてしまいましたが、「トム・ジョーンズの華麗なる冒険」に話を戻しましょう。まず指摘しておきたいことは、今年取り上げた純文学原作映画化シリーズの作品中では、この作品がもっとも原作を読んで見直した後の評価が変わった作品であることです。それも良い方向にです。この作品については、一般的な評価が高い作品であることもあって原作を読む以前にも少なくとも3回は見たことがありましたが、実を言えば、その時点では確かにコスチュームや舞台設定などに見るべきところはあるとしても内容的にはあまり感心しない作品だなと思っていました。何故そのように思ったかと言うと、わざとらしい程に、というよりも明らかにわざと通常の映画では許されないようなあからさまで突拍子もないパフォーマンスが繰り広げられているからです。たとえば、登場人物がカメラに向かって直接視線を投げかけたり、或いはカメラの方向にダイレクトで話しかけたりするシーンが少なからずあり、ラスト近くでは登場人物の一人ウォーター夫人がいきなりカメラに向かってつかつかと歩み寄ってきて、オーディエンスに向かってストーリーの一部をとくと説明したりすらします。或いは、主人公のトム・ジョーンズがいきなり着ていた服をカメラに向かって投げかけるシーンもあります(前述のウォーター夫人が半裸で彼の後ろを歩いていたのでオーディエンスには見せないぞというわけですね)。またフリーズであるとか早回し(というのかな?)のような編集上の技巧も駆使されていて、それがあまりにもわざとらしいのでそのような技巧を見せる為に故意にそれらが導入されているようにしか見えないところがあります。勿論、このようなパフォーマンスや技巧は、コメディ作品においてはそれまでにもしばしば取り入れられていましたが、しかしながら「トム・ジョーンズの華麗なる冒険」は純文学が原作であり、たとえばバスター・キートンのようなコメディアンが主演する純粋なコメディではないはずだと思いながらうーーーんと首を傾げていました。何故コメディではそのようなパフォーマンスや技巧が許されて、コメディ以外では許されないのかという点に関しては考慮の余地があるところでしょうが、恐らくストーリーにのめりこむ必要があるようなたとえば悲劇などにおいてそのようなパフォーマンスや技巧が用いられるとオーディエンスの注意が拡散されてしまうということが1つの理由であるように思われます。しかし今回原作を読んでみて、コメディ要素を多分に含んでいるとはいえバスター・キートンが演ずるような純粋なコメディでは決してないこの作品の中で、何故そのようなわざとらしいテクニックがそれこそわざとらしく用いられているのかが理解できたのですね。というのも、フィールディングの「トム・ジョーンズ」という作品においては作者がストーリーの中で顔を出すケースがあまりにも多く、ひょこひょこ顔を出す全能の作者によるウイットに富んだ様々なコメントが絶えず文章中にばらまかれており(作者が直に読者を対象として語りかけたりもするのですね)、ストーリー自体には属さないマクロ的な言説が同一の文章レベルの中にストーリーと一緒くたになって散りばめられていますが、そのようなマクロ的言説が映画の中では前述したようなあからさまなパフォーマンスや技巧を通して表現されているのではないかということに気が付いたからです。通常の映画の場合にも、ナレーションによってマクロ的言説が語られることは勿論あり、「トム・ジョーンズの華麗なる冒険」においてもウイットに富んだナレーションが時々入りますが、明らかに監督のトニー・リチャードソンはそれだけでは満足できなかったようでナレーション以外にも様々な工夫が加えられており、それが前述したようなあからさまなパフォーマンスやあからさまな技巧として結実しているということに、はたと思い当たったのです(え?気がつくのが遅い、すすすすんましぇん)。因みに、フィールディングが活躍していた当時の小説においてはこのような作者が始終ストーリー中に顔を出す傾向が一般的であったか否かに関しては文学に疎い私めにははっきりと断言することが出来ませんが、確かにたとえばセルバンテスの「ドン・キホーテ」や時代はかなり下りますがサッカレーの「虚栄の市」などでもそのような傾向がかなり色濃く存在していたことを思い出しました。フィクションにおけるこのようなレトリックの用法の推移に関してはウエイン・C・ブースという人の「The Rhetoric of Fiction」などの著書に詳しく書かれています。残念ながら随分以前に読んだ本なので詳細は忘れてしまい今ここで紹介することはできませんが、かなり有名な本なので、興味がある人は是非自分で読んでみて下さい(amazon.co.jpで検索するとウエイン・C・ブース著「フィクションの修辞学」というタイトルが見つかったのでこれが邦訳だと思いますが目の玉が飛び出る値段がついていました。英語が問題でなければ20ドル程度なのでオリジナルを買った方が良いでしょう)。いずれにしても、この映画のうま味の1つは単にストーリーの展開を追うだけではなく、ストーリーに対する作者(と言っても映画の場合は、監督であるとか製作者ということになりますが)のウイットに富んだマクロ的介入を楽しむことにあり、それは丁度原作を読むことにおいてストーリー中に作者が頻繁に顔を出してウイットに富んだコメントを吐くのを楽しむのとほぼ等価であるということになるわけです。要するにトニー・リチャードソンは原作のストーリーだけを映画化したのではなく、それが完全に成功したか否かは別として原作が持つ形式的なレトリックまでをもシュミレートして取り入れようとしたということです。このような手練手管は下手をすると嫌味のように受け取られることがあり、原作を読む前の私めがそのような見解を取っていたことになりますが、全く別のアプローチも可能であったであろうことを考慮してみればかなり勇敢且つユニークな選択であったと言えるのではないでしょうか。そしてまたそのような選択をした時点で、映画化作品が原作以上にコメディ色の強い作品になったことはむしろ必然的な結果だと言えるかもしれません。というのも小説とは違って映画は視覚に訴える度合いが高いので、そのようなあからさまなパフォーマンスや技巧はあまりにも明瞭な形式でダイレクトに提示されざるを得ないからです。いずれにせよ、そのように考え直してこの作品を見直してみると、評価が遥かに上がったことは前述した通りです。

 それからこの映画(或いは原作でも同じですが)を見ていて気がつくことは、イギリスという国はやはり階級社会であったということです。そもそも、「トム・ジョーンズ」というストーリーを簡潔に言えば、私生児だと思われていたにも関わらず寵愛されていた主人公のトム・ジョーンズが貴族の娘と結婚しようとするや否や貴族社会を追われるけれども(つまり越えてはならない一線を越えようとした主人公に制裁が下ったことになります)、最後に実は彼は貴族の息子だったことが判明しその娘と目出度く結婚することができるというような具合になります。すなわち、この作品が描く世界においては家系によって人間の価値が判断されているのであり、彼が貴族の家系に属するか否かによってその人間の評価は180度コロリとひっくり返ってしまうのです。作者がそのような階級社会を揶揄する目的でこのストーリーを書いたのか否かは別としても、そもそもこのような家系や遺産相続を巡る題材が1つの主題として扱われていること自体が特徴的にイギリスの作品だなという印象をオーディエンスに与えるはずです。要するにアメリカではまずこのような作品は書かれないであろうし、ましてやそれが映画化されたりはしないであろうなという印象があります。それとは全く別の話になりますが、原作を読んでいて受けた印象としてこの作品はかなり「ドン・キホーテ」と似たところがあるということが挙げられますが、映画ではそのような印象はほとんど受けませんでした。原作に関してそのような印象があった理由は前述したようなレトリックの駆使に関する類似性もありますが、主人公のトム・ジョーンズと従者のパートリッジの滑稽な関係がドン・キホーテとサンチョ・パンサの滑稽な関係に類似している点にもあります。また、そのような滑稽な関係が田舎巡りの冒険旅行を通して発展展開される点でも両者は類似しています。少し横道に逸れますが、ここで「田舎巡りの冒険旅行」と書いたのは私めの勝手な印象であり、地理関係がよく分からない冒険旅行を小説で読んでいると大冒険旅行というよりはどうにも主人公達は近くの裏山をうろちょろしているのではないかという印象を持ってしまうのですね。「ドン・キホーテ」の場合も「トム・ジョーンズ」の場合もそのように感じました(※)。それに対して、たとえば「東海道中膝栗毛」を読んでもそのような印象を受けることがないとすれば、それは日本が舞台になっていて地理関係を経験的に明快に思い浮かべることが出来るからであり、そのような体験上のインデックスに参照できないとどうしても矮小化されたイメージを持ってしまうのは、きっと私めに想像力が欠如しているからに違いありません(かかか悲しい!!)。ということで、絶対に私めには小説は書けないでしょうね。脱線し過ぎましたので話を元に戻すと、勿論、根は正直ではあっても俗物根性も旺盛でありそれ故失敗を重ねるトム・ジョーンスと、アナクロニスティックな騎士道の世界に生きて現実世界との齟齬により失敗を重ねて読者の笑いを誘うドン・キホーテの間には大きな違いがありますが、主人と従者という関係に由来するトンチンカンなやり取りの妙味など2つの小説の間に似たようなエンターテインメント性を見出すことは比較的容易であると言えます。まあ妄想癖のあるパートリッジが幽霊をしきりに恐れたり宿屋に魔法がかけられていると思ったりするシーンは明らかにドン・キホーテに対する一種のオマージュでしょう(但しドン・キホーテの場合にはご主人様の方がそのような妄想を抱いているわけですが)。その点映画では、パートリッジの存在にはほとんど重きが置かれていないので、彼とトム・ジョーンズとの間の滑稽なやり取りがほとんど見られず(また原作においては別のキャラクターとして登場した若者のナイチンゲールが映画ではパートリッジと一緒くたにして扱われているようですね)、それ故「ドン・キホーテ」との類似性もほとんど感ぜられないわけです。フィールディングの「トム・ジョーンズ」の楽しさの1つはこの点にあると個人的には考えているので、その意味では映画ではその分面白味がやや減退しているようにも思われます。

 しかしながらその不足分を少なからず補ってくれるのが、要所に配役されている4人の個性的な女優さん達です。まず、トム・ジョーンズの思い姫(すなわち「ドン・キホーテ」におけるダルシネア・エル・トボソに相当します)ソフィア・ウエスタンを演ずるスザンナ・ヨークですが(画像左参照)、やや彼女は原作のソフィアよりも明るく快活過ぎる印象があるとはいえ、それでも十分に思い姫としての存在に見合っているように思われます。まあ個人的に好きな女優さんでもありますので・・・・。それからソフィア・ウエスタンの叔母を演ずるイーディス・エバンスは、原作のイメージに合致しているか否かは別としても威厳と滑稽さが微妙に交錯し彼女ならではの一種面妖なパフォーマンスが基本的にはコメディであるこの作品の大きなアセットになっていることは間違いのないところでしょう。それから原作のイメージに最も近いというか原作以上に役にフィットしているように思われるのがダイアン・シレント演ずるワイルドなモリーでしょう。シレントはかの初代007ジェームズ・ボンドであったショーン・コネリーの奥さんでもありました。それから狡猾な策を弄してトム・ジョーンズを誘惑する女策士のレディ・ベラストンを演じているのがジョーン・グリーンウッドですが(画像右参照)、彼女は顔には似合わない低く安定感のある声が実に素晴らしくそれを聞くだけでも聴覚派の私めはうっとりしてしまいます。因みに男優陣に関して言えば、トム・ジョーンズを演ずるアルバート・フィニーは、多分彼以上の適任者はいないように思われます。それからソフィアの親父さんであるスクワイア・ウエスタンを演ずるヒュー・グリフィスは(画像中央参照)、いつも以上にわざとらしくオーバーアクティング気味ですがこれはむしろ故意でしょうね。前述したように、わざとらしさはこの作品では決してマイナス要因にはならないということです。それからジョン・アディソンのわざとらしい音楽もわざとらしいこの作品にマッチしていて楽しいですね。最後に付言しておくと、この作品は1963年度のアカデミー最優秀作品、監督、脚本、作曲各賞に輝いているほか、主演男優賞(アルバート・フィニー)、助演男優賞(ヒュー・グリフィス)、助演女優賞(ダイアン・シレント、イーディス・エバンス、ジョイス・レッドマン(ウォーター夫人役))等数多くの部門でアカデミー賞にノミネートされています。

※「ドン・キホーテ」に関して云えば、この印象は必ずしも間違ってはいないようです。そもそも、広大なシベリアやアメリカを旅しているわけではないということは別としても、岩根圀和氏の「贋作ドン・キホーテ」(中公新書)にあるドン・キホーテとサンチョ・パンサの旅行工程再現地図を見ても、この主従の道中がいわゆる世界を股にかけた大旅行などではないことがよく分かります。同氏によれば、「ドン・キホーテの最初の門出と二度目の旅立ちは比較的狭い範囲を行き来することで終わっている」とあり、また最後の三回目に関しては、一回目、二回目よりは広い範囲を歩き回っているとはいえ、どうやら本来かかるはずの日数よりかなり端折って道中が描かれているそうです。むしろ、問うべきとすれば、何故ドン・キホーテ主従が世界を股にかけた大旅行をしているようなイメージを、実際に読むまでは持っていたのかということかもしれません。というよりも、そんなアホなイメージを持っていたのは私めだけかな????(2008/09/07追記)

2007/07/27 by Hiroshi Iruma
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