絞殺魔 ★★☆
(The Boston Strangler)

1968 US
監督:リチャード・フライシャー
出演:トニー・カーティス、ヘンリー・フォンダ、ジョージ・ケネディ、サリー・ケラーマン


<一口プロット解説>
女性ばかりが相次いで殺害されたボストン絞殺魔事件を扱った実話に基くストーリー。
<雷小僧のコメント>
昨年この映画のDVDが発売されたのでさっそく取り寄せましたが、それ以前までは中古で買ったビデオで見ていました。そこで気が付いたことが、この映画はDVDのようなメディアでないと本来の意図が大きく損なわれる可能性があるようなたぐいの作品であるということです。というのも、非常に凝った分割画面が採用されているからです。凝った分割画面と言えば同年製作の「華麗なる賭け」(1968)が有名ですが、この映画ではそれ以上に凝った提示の仕方が為されています。ところで、「絞殺魔」の横縦比は2.35:1ですが、ビデオ版のものは左右が切り取られ1.33:1に切り詰められています。さすがに分割画面に切り替わる間のみは2.35:1で表示されていますが(そうでなければ、分割画面シーンそのものが全く機能しないでしょう)、やはりビデオのしかも中古品のボケたような画面でこのような分割画面が見せられると分割された各々のウインドウが小さいだけに非常に見難いものになってしまいます。また2.35:1の分割画面部分と1.33:1のそれ以外の部分が交互するのも奇妙な印象があります。その点、さすがにDVDは全編2.35:1で統一されている上に画像も極めて鮮明であり、劇場公開時は別としてこの作品が正当に評価される状況がようやく到来したと言えるかもしれません。ということで、次に内容に関してですが、この映画は有名なボストン絞殺魔を扱った映画です。この映画で最も意外なことは、洒落者的雰囲気を持ち1960年代にはロマンティックコメディへの出演が非常に多かったトニー・カーティスが何とボストン絞殺魔を演じていることです。これには少し違和感があり、何度か見た後の現在でも完全にこの印象を拭い去ることは出来ないというのが正直なところです。しかしながら、その事実によってこの映画が完全に損なわれる程までにトニー・カーティスという役者のイメージが完全に固定化されていたわけではないので、たとえばケーリー・グラントがボストン絞殺魔を演ずることは100パーセント考えられなくともトニー・カーティスであれば違和感はあっても決定的にミスキャストであるような印象もそれ程ないというようなところであり、むしろ意外な好演を見ることが出来るのには得をしたような気分になります(但し、彼がコメディでしばしば発する独自のうなりのようなつぶやきをこの映画でも発しているのは頂けませんが)。
さて前述したように、この作品では凝った分割画面が採用されていますが、それは何故かというとドキュメンタリー効果を最大限に引き出す為であることは明瞭です。勿論分割画面は、それまででもたとえばロマンティックコメディなどでも時折見かけることが出来ますが、それはあくまでもそのシーンの機能的な分割線とパラレルな仕方での分割なのですね。たとえば、電話シーンなどにおいて電話をしている両者を2分割画面によって同時に提示する等です。しかし、「絞殺魔」の分割画面は、ボストン絞殺魔が殺人に及ぶまでのシーンなどで使用されていますが、ロマンティックコメディのそれと異なるのは、機能的な分割線に沿った分割であるというよりも、その時点では関連が必ずしも明白ではない同時並行して発生する多くのミクロな事象を多分割して同時に提示することにその目的があることです。従って分割画面が表示されている間は、それらの事象間の有機的な関連はその時点ではあまり明瞭ではなく、殺人の実行シーンであれば実際に殺人が発生してから後追い的に回顧した時に始めてそれらの間の明瞭な関係を再構成することが出来るような提示がされています。このような図式は現実生活で何らかの事件が発生する場合でも同様に当て嵌まり、ある1つの事件の発生に至るまでには各種の要因が何らかの兆候として個別的に少しずつ現れてはいるけれども、それらの兆候が有機的な連関を持って捉えられることがないが故にその事件が実際に発生してしまうわけです。そうでなければ、すなわち事件の原因となる要素を全て事前に関連付けることが出来たならば、その事件の発生は防ぐことが出来たはずです。現実生活におけるリアリティの持つこのような特質が、「絞殺魔」の分割画面によってうまく表現されているような側面があり、そのように考えてみるとロマンティックコメディにおける分割画面の使用とこの映画のそれでは、意図が180度違うことが分かります。すなわち前者では、分割画面はストーリー展開をより明瞭にする為に採用されているのに対し、後者ではむしろ分割画面が提示されている間は、いったい何がそこで発生しようとしているのかが明瞭には把握出来ないようにされ(そもそも多分割された画面の各ウインドウ1つ1つに注視することは不可能なのですね)、ストーリー展開の明瞭性よりも全てが説明的な明瞭性を持って提示されることが決してない現実世界におけるリアリティの存在様式がそこでは強調されているということです。従って、分割画面のそれぞれのシーンを時間軸に沿って1つずつシーケンシャルに提示すれば結局同じことになるのではないかと思われるとすれば、ロマンティックコメディの場合は全くその通りであるとしても、「絞殺魔」の場合は全くそうではないということに注意する必要があります。何故ならば、時間軸に沿ってシーケンシャルに各シーンを提示するという手法自体が映画におけるストーリー展開の定石であり、そこで意図されているのはある出来事の発生に至る因果関係を時間軸に沿って見る者に明白に提示することであるのに対し(グランドホテル形式の映画やロバート・アルトマンの作品のようにこの原理から多かれ少なかれ外れる例外的な作品も勿論存在しますが)、前述したように「絞殺魔」における分割画面の使用においてはむしろその逆が意図されているように考えられるからです。
また、この映画には全体的なストーリー構成にも斬新な点があります。それは、最初の4、50分間は、メインキャラクターであるボストン絞殺魔自身は全く登場せず、ヘンリー・フォンダやジョージ・ケネディ演ずる捜査官達が苦労して犯人を探し出そうとするにも関わらず、絞殺魔とは全く関係のない変質者ばかり逮捕する結果となりスカばかり掴んでいる様子が描かれていることです。これは一種の伏線であり、ボストン絞殺魔は二重人格者であるが故になかなか尻尾を出さず、捜査側にとっては犯人がいかに捉えどころのない人物であったかがそれによって示されているわけです。この映画でオランダ人の超能力者が事件の解決の為に雇われるシーンがありますが、確かこれは本当のことではなかったかと覚えています。超能力者に依存しなければならない程、犯人の特定が困難であったということでしょう。というよりも、得体がしれないところがあったということかもしれません。得体が知れない点では、ボストン絞殺魔はジャック・ザ・リッパー等の殺人鬼とは大きく異なっていたというべきかもしれません。どちらも大都会を恐怖のどん底に陥れた存在であったことには違いがないとしても、ジャック・ザ・リッパーが華やかな大都会の影の部分に進入してその影の部分から大都会を恐怖のどん底に陥れ、確かに犯人は誰であるかがついに解明されることがなかったとしても行為としての図式に関しては極めて明瞭なものがあったのに対し、ボストン絞殺魔は最初から影すら存在せず、犯人がどのような図式或いは心理機制に支配されていたのかが全く不透明なのです。ジャック・ザ・リッパー事件は19世紀末のロンドンで発生した事件であり、或る意味で19世紀末のイギリスにおける社会配置によって倒錯的に生み出されたのがジャック・ザ・リッパーという怪物であったと見做すことが出来るとするならば、1960年代初頭のボストンで発生したボストン絞殺魔事件の犯人はその時代のアメリカにおける社会配置によって倒錯的に生み出された怪物であったという言い方が出来るかもしれません。すなわち前者には階級社会に対する何らかの関係を見て取ることが出来るとするならば(殺された女性は売春婦等の下層階級の女性ばかりであったようですが、このことはこの事件に何らかの階級的コノテーションが含まれていたことが示唆されているのではないでしょうか)、後者にはそのような階級的コノテーションが含まれておらずむしろそのような階級差というような社会構造が捨象された時点で発生した事件であったというのが大きな特徴になるのではないでしょうか。従って、余計に犯人の動機や意図が分からないわけです。
その点では、トニー・カーティス演ずるボストン絞殺魔の登場の仕方も極めて印象的且つ効果的です。彼は、映画開始後かなり時間が経過した時点で何の脈略もなくそれまでのストーリー展開に対する闖入者のようにも見える仕方でいきなり登場します。何故そのような登場の仕方が効果的であるかというと、ボストン絞殺魔の不透明さがそれによって際立つからです。すなわちそれまで流れてきたストーリー展開が遮られるような形で彼は登場するわけですが、もしそのストーリー展開の流れに沿ってボストン絞殺魔が炙り出される展開になったとしたならば、結局彼は予測可能な存在であったという印象を与えざるを得ないことになります。確かに、彼はヘンリー・フォンダ演ずる捜査官に押し込み強盗の容疑で逮捕され、最後にはボストン絞殺魔とは彼のことであったことが証明される展開になりますが、しかしながらトニー・カーティス演ずるボストン絞殺魔の登場の仕方は実に斬新であり、彼が単なる論理的推論によって予測出来るような存在ではまったくなかったということがそれによって極めて説得的に伝わってきます。ところで、トニー・カーティス演ずるボストン絞殺魔は、二重人格という精神異常を患っていたわけであり、「絞殺魔」という映画も一種のサイコドラマなのではないかと思われるかもしれませんが、その予想は全くはずれることになります。たとえば、殺人鬼を扱ったサイコドラマと言えば文字通りその名も「サイコ」(1960)というタイトルを持つヒチコックの有名な作品がありますが、単に「絞殺魔」が事実に基いた映画であるのに対し「サイコ」はフィクションであるという違い以上の相違がこの両者の間には厳然と存在します。「サイコ」が一見するとそう見えるような深層心理的な作品ではなく演劇的な作品であることについては「」(1963)のレビューに書きましたのでそちらを参照頂くとして、「絞殺魔」という映画にはサイコドラマに不可欠な彼は何故人を殺すのかという点に関する説明はただの一行も存在しません。これは、「サイコ」のラストシーンで、連続殺人犯ノーマン・ベイツが女性ばかり続々に殺害するのは心の中の母親形象が彼と出会う女性全てに対してジェラシーを抱くからであるというような説明がとってつけたように為されるのとは大きな違いであると言えます。このような説明は、「サイコ」という心理ドラマが演劇的に完結する為になくてはならないものであったことは「鳥」のレビューに書きましたが、もとからドキュメンタリー的な特徴を色濃く持つ「絞殺魔」にはそのような説明は全く不要であったわけであり、芝居じみた大仰さ嘘臭さがないシンプルな展開は1970年代以降のドキュメンタリー色の強い映画の先駆けを為す作品であったと言っても言い過ぎではないかもしれません。但しそれ故ボストン絞殺魔という題材が取り上げられながらも、ドラマティックな起伏があまり目立たない映画でもあり、その点に不満を感ずる人がいてもおかしくはないような作品であることも間違いのないところでしょう。ということでタイトルにも関わらず扇情的なシーンはほとんどなく、むしろ抑制された印象が色濃く存在する作品ですが、1960年代の映画としては極めて斬新な映画であったことは間違いのないところでしょう。

2005/08/06 by 雷小僧
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