華麗なる賭け ★★☆
(The Thomas Crown Affair)

1968 US
監督:ノーマン・ジュイソン
出演:スティーブ・マックイーン、フェイ・ダナウエイ、ポール・バーク、ジャック・ウエストン



<一口プロット解説>
金持ちでありながら銀行強盗を行う目的のためだけに銀行強盗を行う億万長者の主人公トーマス・クラウン(スティーブ・マクイーン)に、その事件を追う辣腕保険調査官ビッキー(フェイ・ダナウエイ)が意図を隠しもせずに自信満々近付いてくる。
<入間洋のコメント>
 誰もが巨万の富を築き大富豪のような生活を送りたいと夢見ているが、残念ながら実際にそれが許されているのは限られた人々に対してのみである。諸説あるが、かつて「大富豪」という世の中の縮図のようなトランプゲームが巷で流行った理由は、「大富豪」という言葉の響きがもたらす心地良さと(このゲームは時に「大貧民」とも呼ばれるがその場合には自嘲的な響きが強調されるとはいえ、ベクトルが逆になっただけであり基本的なメンタリティは変わらない)、大富豪になった時大貧民から貢物を頂く時のあの何とも言えない快感が万人に受けたからではないかと個人的には思っている。現実生活においても、一攫千金を夢見て宝くじを買うとか、競馬で大穴を狙うとか、或いはサッカーくじを買ってみるとか色々チャレンジしてもなかなか世の中うまくいかないものである。しかもこう言っては身も蓋もないが、このような手段であぶく銭を得ても、それはせいぜい多くて数億円であり、昔の通貨価値でならばいざ知らず現在ではそれでは億万長者とさえ言われないのである。更に追い打ちをかけるように身も蓋もないことを言えば、仮に小さな会社を立ち上げて努力が報われ事業が成功し、ビル・ゲイツとまではいかないまでもいくらかの資産を蓄積したとしても、成金とは言われても真の意味での大富豪とは言われないのである。しかもそのビル・ゲイツですら、若い頃彼がいかに「しわいや」であったかなどというような話がしばしばやっかみ半分のジョークのネタになるように、彼が生きている間は成金として見られることから免れることは避けられないように思われる。たとえ金持ちと言われるに十分な財力を持ったとしても、それだけでは、ロックフェラーやロスチャイルドがそうであるような札束の数では測れないような象徴的価値を担う「大富豪」という存在にはほど遠いと言わざるを得ない。それとは対照的に、「大富豪」は事実上の破産状態に置かれたとしても、尚且つ「大富豪」であると見なされ続けるのである。

 むしろ皮肉にも、持っているか持っていないかがフォアグラウンドとして意識の俎上にのぼった途端に「大富豪」としてはたちどころに失格してしまう。たとえば、成金は人目に立つところばかりを飾りたてるが、真の金持ちは他人には見えないところに金をかけるということがしばしば言われる。このアフォリズムには、成金は自分が「持っている」ことを誇示することに固執するが故に自らの出自をみすみす暴露して意図したこととは正反対のマイナス効果をおのずと招来してしまうのに対し、真の金持ちは持つ持たないを外面的に誇示することそれ自体が自らの価値を貶める結果になることを体が覚えていて決してそのようなヘマはしないことが痛烈な皮肉を持って語られている。「実践感覚」や「ディスタンクシオン」のピエール・ブルデューではないが、このような価値観は、自らの身体とそれを取り巻く環境世界たるハビタスとの微細なインタラクションが関与する為に、意識的な操作では是正が困難であるという大きな特徴がある。成金と言われる人々は、確かにカネを持っているという意味においては金持ちであると言えようが、そもそも「成金」という言葉のネガティブな響きが示すように、彼らは決して「大富豪」という言葉が喚起する象徴的な価値を体現する存在であるようには一般には見なされない。何故ならば彼らの住むハビタスとは、「持つ持たない」が解消されたところに成立する「大富豪」のハビタスとは全く別であるどころか、「持つ持たない」が存在意義の大きな部分を占めるが故に全くその逆でもあるからである。

 読者の中には「華麗なる賭け」について語るに当って何故そのようなことをくどくど述べるのか疑問に思われるかもしれないが、その理由は「華麗なる賭け」のスティーブ・マックイーンは、文字通りこの「大富豪」のハビタスに住まう人物を演じているからであり、スクリーン上での彼のパフォーマンスを通して、「大富豪」ゲームで束の間の幻影を垣間見ることが出来た、あの「大富豪」というステータスを代理体験出来るからである。スティーブ・マックイーン演ずる大富豪トーマス・クラウンは、銀行強盗を実行する、というよりも赤の他人に実行させるが、それは決してカネが欲しいからではなく、ポロやグライダーやサンドバギーのような余暇のスポーツと同列な次元でそれを行う。ゴルフで賭けをするシーンでは、素晴らしいショットを披露した後でパートナーからマグレだと言われ、それならもう一度やってみるかと大金の賭けをするが、2回目は平然とミスをする。要するに、彼にとっては賭け金に関しても自分のゴルフの腕前に対するプライドに関しても、意識上の関心事では全くない。すなわち彼には何を証明する必要もないということを彼の体が覚えているのである。彼が影で糸を引いた銀行強盗を捜査する為に、自らの素性を隠しもしない程に自信家の辣腕保険捜査官ビッキー(フェイ・ダナウェイ)が彼に近付いてくるが、彼はそれをものともしない。有名なチェスシーンでは彼は見事に彼女の陽動作戦にひっかかって負けてしまうが、実を言えば彼は全く負けてはいないのである。何故ならば、最初から彼には勝つ必要などどこにもないのに対し、保険捜査という目的を持つ彼女にとってはこのチェスゲームでも彼に対する優位を保つために勝つ必要があり、負けても平然として別のゲームをしようと言って彼女を抱き寄せる彼の前では、彼女が勝つことによりそのような立場の差がより明確になってしまうからである。

 このようなシーンを見ていると、スタイリッシュさという点においては両者に差は全くないが、自分が持っていないものを獲得する為にMBO的な目標管理により意識的な目標を定めてエリートサラリーマン的に行動するビッキーと、最初から自己充足したトーマス・クラウンでは住むハビタスが全く異なることがよく分かる。しこたまカネを持っていながら何故銀行強盗など働いたかとビッキーがトーマス・クラウンに尋ねるシーンがあるが、このシーンでは、文字通り需要と供給という経済原則で物事を推し量り、何かが為される根底には何らかの目的が必ずあるはずだと考える彼女が、トーマス・クラウンが住まうハビタスには全く属していないことがいみじくも示唆されている。これに対し、トーマス・クラウンが計画実行した銀行強盗には、そもそも目的など存在しないのであり、「贅沢」、「余剰」という原理なき原理がその動機なき動機であったことになる。このような両者の違いは、ラストシーンにおいて、飛行機の中で一人微笑するトーマス・クラウンと、彼を逮捕しようとする警察官とともに墓地で彼の出現を待ち、彼からの手紙を受取って自らの置かれたシチュエーションを悟り泣き崩れるビッキーとの間の高度の差及び軽快さの差となって現れる。必要性、目的、希少価値というような我々が日頃常に取り憑かれて四苦八苦している原理とは全く無縁でいられる大富豪トーマス・クラウンというキャラクターの魅力が、スティーブ・マックイーンの持つカリスマ性により倍加され、オーディエンスに得も言われぬ憧憬を誘うところがこの映画の真髄であると言えよう。このようなテーマは一歩間違うと金持ちが好き勝手をしているように見えてしまうが故にオーディエンスの反感を買ったとしても何の不思議もないが、事実金持ちが好き勝手をしているところが描かれているにも関わらずオーディエンスには爽快感すら与えるところがこの映画の凄いところである。このようなタイプの映画として、「華麗なる賭け」はロザリンド・ラッセルがボヘミアンを演じている「メイム叔母さん」(1958)と共に双璧を成すと言えよう。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2001/02/10 by 雷小僧
(2008/10/17 revised by Hiroshi Iruma)
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