求婚専科 ★★★
(Sex and the Single Girl)

1964 US
監督:リチャード・クワイン
出演:トニー・カーティス、ナタリー・ウッド、ヘンリー・フォンダ、ローレン・バコール


<一口プロット解説>
世界で最も卑劣な雑誌社の中で最も卑劣な記者であることを自認する男ボブ・ウエストン(トニー・カーティス)が、女性精神分析医ヘレン・ガーリー・ブラウン(ナタリー・ウッド)の私生活を暴露したスクープのフォローアップを始めるが・・・。
<入間洋のコメント>
 リチャード・クワインやスタンリー・ドーネン、或いはメルビン・フランクといった監督が手掛けた映画には、決して傑作と呼ばれる作品はありませんが、個人的にはこの手の監督さん達の手になる作品をよく見ます。その理由の一つとして、コメディタッチの作品が多く、気軽に見られる点が挙げられますが、単なるスラップスティックコメディとは異なり、極めて洗練された印象を受けるがゆえに何回見ても飽きないのです。この手の軽い映画の評価は、一般的に余り高くはないのが普通であるとしても、たとえばエリア・カザンの「欲望という名の電車」(1951)を見て元気100倍になるような奇特な人はいなくても、彼らの作品を見ていると元気1000倍くらいにはなるはずであり、気分の活性化にはもってこいです。しかも、ここに取り上げる「求婚専科」には、主演のトニー・カーティス、ナタリー・ウッドの他にも、脇役としてヘンリー・フォンダ、ローレン・バコール、メル・ファラーという錚々たる顔ぶれが揃っており、とてもこの手のコメディとは思えない程の豪華なキャストを堪能できます。また、カウント・ベーシー楽団が実名で登場することと、歌手でもあったフラン・ジェフリーズ(因みに、IMDbによれば彼女は「求婚専科」の監督リチャード・クワインの2番目の嫁さんでもあったようです)の歌が聴けることも付け加えておきましょう。それから、上掲画像からも分かるように、作品全体の配色が黄色に近い茶色で統一されており、カラーコーディネーションの妙味をたっぷりと味わうことができます。
 このようなコメディにおいては、ストーリーそのものが重要になることはほとんどありませんが、簡単に紹介しておきましょう。トニー・カーティス演ずるボブ・ウエストンは、世界で最も卑劣なゴシップ雑誌を発行していることを自負する雑誌社の中でも、最も卑劣な記者であることを自認していますが、その卑劣なゴシップ雑誌でスクープ記事に取り上げた若い女性精神分析医ヘレン・ガーリー・ブラウン(ナタリー・ウッド)を見初めます。ここで、なぜそのような悪名高き雑誌が23歳の小娘なんぞをスクープの対象にするのかなどとは問わないことにしましょう。ところで、主人公が住む家の隣家には、始終喧嘩ばかりしている夫婦(ヘンリー・フォンダ&ローレン・バコール)が住んでおり、ボブ・ウエストンは、この隣家の旦那の代理を装って結婚生活相談を持ち掛け、ヘレンに取入ろうとします。かくして、艶笑コメディに典型的に見られるすったもんだが始まるわけです。尚、ナタリー・ウッドが演じているヘレン・ガーニー・ブラウンは実在の人物でもあり、実際に「Sex and the Single Girl」という映画の原題と同じタイトルを持つ当時(1962年7月)のベストセラーを書いた人です。フェミニストでミシガン大学教授のスーザン・J・ダグラスの著書「Where the Girls Are」(Three Rivers Press)によれば、確かに彼女はフェミニストの走りとはいえないけれども、この有名なベストセラーには、性に関するダブルスタンダードを窓から放り投げた点において女性解放の何らかの兆しが読み取れるそうです(参考までに脚注として原文を挙げておきます)。同じくスーザン・J・ダグラスによれば、ヘレン・ガーニー・ブラウンの見解は、根底においては野郎どもを喜ばすことに主眼が置かれていたということですが、ナタリー・ウッド演ずるヘレンが典型的な男性至上主義者であるボブの腕の中に飛び込む「求婚専科」のラストシーンにもそのような傾向が明らかに見て取れます。いずれにしても、実際にフェミニズムの嚆矢と呼ばれるようになるベティ・フリーダンの著書「新しい女性の創造」がベストセラーになったのは、(映画ではなく本が出版された)翌年の1963年のことでした。「Sex and the Single Girl」により名声を博した実在のヘレン・ガーリー・ブラウンは、その後TVトークショーに出演したり、雑誌「コスモポリタン」の編集者になったりしたそうです。とはいえ、映画のストーリーは、実在のヘレン・ガーリー・ブラウンとはほとんど何の関係もないのではないかと思われ、要するに彼女と彼女のベストセラーのイメージをちょっくら拝借したという程度なのでしょう。
 「求婚専科」の面白いシーンの1つに、トニー・カーティスがまたまた女装して、というか女物の寝間着を着てあちこちをうろちょろ歩き回るシーン(上掲画像右参照)があります。そのような格好をしたトニー・カーティスを目にした人々が、ジャック・レモンに似ているとコメントします。これは、勿論彼がマリリン・モンローと共演した「お熱いのがお好き」をもじっているわけです。トニー・カーティスは、どう見てもジャック・レモンには似ていないので、ジャック・レモンに似ているとは少し妙ですが、本当は、同語反復的に洒落てトニー・カーティスに似ていると言いたかったのでしょう。いずれにしても、トニー・カーティスはきっと女装するのが好きであるに違いなく、それがまたよく似合う人でもあります。最近はほとんど見かけませんが、どうしているのしょうか。映画出演は、もう娘(ジェイミー・リー・カーティス)に任せてしまったのでしょうか。また、ヘンリー・フォンダが演じている隣家の旦那は、女性用のパンティストッキングを製造する会社に勤めており、足を見ただけで自分の奥さんを見分けてしまうのは、本当にそれは可能なのかと思わせてくれます。これについて余談を述べると、アフリカの未開民族の中には、顔貌性、すなわちそれによって個人が個人として識別される標識は、何も実際の顔だけにとどまらず、たとえば腹や足などの体の部分にまで及ぶ場合があるそうです。作品のハイライトは、何といっても4台の車に分乗した主要登場人物達が追いつ追われつする最後の20分間でしょう。いわば、昔ドリフターズがやっていたドタバタギャグにかなり近いものがあり、それぞれの車に乗っている人物が目まぐるしく入れかわり立ちかわりし、その上白バイのおまわりさんやタクシーの運転手まで加わって、しまいには誰が誰を追いかけているのやらさっぱり分からなくなるほどまでに混乱します。このシーケンスは、余りにもあからさまであるとはいえ、それだけに妙に可笑しいところがあります。あまりにも、馬鹿馬鹿しいことを、わざわざ映画の中でやってのけると、かえって新鮮に見えることがあるものです。最後に、やはりナタリー・ウッドに言及しないわけにはいかないでしょう。彼女は、古臭い表現を用いれば、どちらかといえばおかっぱ頭をしたおてんば娘が似合いそうであり、そのせいか70代以降は旦那のロバート・ワグナーと共にほとんど忘れ去られ、最後には、例の転覆事故に至ります。「求婚専科」でも、おてんば度を全開にしていますが、自分が精神分析医だということを忘れ、突然泣きじゃくりながら母親に長距離電話をかけるシーンは彼女の面目躍如としてなかなか傑作です。

脚注:Now, I don't want to hold Helen Gurley Brown up as some paragon of feminism, since the bottom line of her message has always been the absolute importance of pleasing men. But looking at her book, thirty years later, with all its fatuous advice about buying wigs, bleaching your leg hair, and making "chloroform cocktails" (coffee, ice cream, and a fifth of vodka), we see some startling stirrings of female liberation. And, for her, liberation came through sex, by throwing the double standard out the window.

1999/04/10 by 雷小僧
(2009/03/01 revised by Hiroshi Iruma)
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