ゲーム ★☆☆
(The Game)

1997 US
監督:デビッド・フィンチャー
出演:マイケル・ダグラス、ショーン・ペン、デボラ・アンガー、キャロル・ベイカー



<一口プロット解説>
48才の誕生日を迎えるマイケル・ダグラスの前に弟(ショーン・ペン)が現れ、彼にある奇妙なゲームへの招待状をプレゼントされるが、そのゲームへの申込をするや否や奇妙なことが彼の身の周りで発生し始める。
<雷小僧のコメント>
実を言えばこの映画を最初に見た時、思わず観客を舐めてもらっては困るなと思ったものでした。というのも、最近の映画を見ているとオーディエンスの考えていることの裏をかくことばかりを考えているような結末になるものが多くこの映画もまたかと思ったからです。意外性のある結末というのは確かにそれが全体の有機的構成を乱さない限りにおいては映画の一つの重要なエレメントになることは間違いないのでしょうが、オーディエンスを驚かすということが第一の目的と化してしまうと、ただただ一番有り得ないであろうという理由だけによってある特定の結末が選択されることになり、映画の有機的な統一など二の次、三の次になってしまうわけです。要するに、結末がどうなるかというのは、映画全体の必然的な当為から導き出されるのではなく、如何に観客を驚愕させることが出来るかというようなその映画のプロット展開自体から見れば全く外的なすなわちマクロレベルに属する要素から導き出されることになるわけであり、極端な言い方をすれば、プロット自体の観点からすればどんな結末を導いてもよかったということになってしまうわけです。この「ゲーム」という映画も(これから先この映画のプロットをある程度ばらしますので見ていない人でこれから見るつもりである人はこの先読まない方がいいでしょう)、見る者の予想の裏へ裏へと常に廻るようなストーリー展開になっているばかりか、その結末はちょっと真面目に考えればとても許せるような類のものではないのですね。たとえば、タクシーごと海に放り込まれても(ダイバーがいたなどと取ってつけたような説明が後からありますが、あの状況ではダイバーがいようがいまいが溺れ死ぬ方が妥当でしょうね)、銃で撃ち合いをしても(空砲だったなどという取ってつけたような説明が後からありますが空砲で天井に穴はあかないでしょうね)或は高層ビルの屋上から飛び降りる展開になっても、尚且つ最後に「サプライズ!ハッピーバースデイ」というのでは、余程ひねくれた人間でない限り人を馬鹿にするのもいい加減にせいと言いたくなってきたとしても何の不思議もないわけです。
けれども、私目は考え直したのですね。何故ならば真面目にこの映画を見てしまうと余りにも馬鹿馬鹿し過ぎると思ったからです。そこで、はたとこの映画の「ゲーム」というタイトルに思い当たったのです。この「ゲーム」というタイトルの意味は何か。確かにこの映画は主人公のマイケル・ダグラスが巻き込まれる奇妙なゲームに関するストーリーなので「ゲーム」なのかもしれませんが、もう一つゲームがあるのではないかと思ったのですね。それは何かというとデビッド・フィンチャーを始めとするこの映画の製作者達(以後代表してフィンチャーと言うことにします)がオーディエンスに仕掛けるゲームという意味合いにおけるゲームです。要はこの映画は最初からストーリーうんぬんかんぬんの映画なのではなくて、映画自体の展開とは全く関係なくフィンチャーがオーディエンスをマクロレベルで次々と撹乱操作し罠にかけていくようなそういう映画なのではないかということです。従ってオーディエンス側もストーリーそのものよりもそういうマクロレベルでの操作を素直に受け入れ、そこから快感を引き出すとこの映画をマクシマムに享受出来るというような何というか実に嗜虐的な映画であると言えるのかもしれません。ひょっとするとフィンチャー自身、前節で述べたような観客を驚かせることだけしか頭にないような結末を有するいくつかの最近の映画にある傾向を、それを極限の形態で呈示してみせることによって皮肉っているのかもしれませんが、この「ゲーム」の場合には最初から最後までフィンチャーがオーディエンスに仕掛けるマクロレベルでのゲームの方が内容的な側面よりも勝っていると捉えた場合、その人工性によって映画自体の一貫性が粉々に瓦解することから免れることが出来るわけです。すなわちこの映画自体が人工性の映画そのものであると言ってもいいのですが、そうでない映画が観客を驚かせるためだけの取ってつけたような結末を導くとどうなるかというと、たとえば「理由」(1995)のような一貫性が最後に一挙に瓦解してしまうような映画になってしまうのです。また別の例を最近の映画「英雄の条件」(2000)から挙げてみましょう(そもそもこの映画は、この映画が持つメッセージ自体私目には相当疑問があるのですが、それはここで取り上げる主旨とは関係ないので取上げることはしません)。この映画の何が問題かというと、この映画はサスペンス要素を引っ張るためにサミュエル・L・ジャクソンが実際に無実の人々を殺害したかどうかを最後まで観客にわからないように仕向ける或は無実の人々を実際に殺害したかのように思わせるのですが、単に観客を欺くような仕方を通して故意に間違った印象を観客に与えるという手段によってその目的を達成するのですね。武器を持たない平和的なデモ隊であると思われていた群衆が隠し持っていたライフルでジャクソンの部隊を銃撃するシーンをジャクソンが回想するこの映画の最後の方のシーン(私目は最初これはジャクソンの妄想であると解釈したのですが、映画の成行きから見るとそうではないのでしょう)になって初めて観客はジャクソンの主張がほぼ真であることを知ることが出来るのですが、そもそも何故もっと早い段階でこのシーンを見せなかったのかが私目には強烈に疑問に感じられてしまうのですね。それは映画を製作する側の自由ではないかと思われるかもしれませんが、この映画の重大な局面がこの点に大きく左右されるだけに、これは観客に対して必要な情報の公開を故意に遅延していると取られても仕方がないわけであり、最終的な印象はマクロレベルでの映画製作者の観客操作という側面が強烈に感じられ、この映画が監督のウイリアム・フリードキンが述べているようにドキュメンタリータッチの映画を目指していたのであるとすれば完全にその意図とは反対のことをしていることになるわけです。また、そもそもジャクソンの部隊があれだけ追いつめられてから群衆が隠し持っていた武器を取り出すなどというのは全くナンセンスであり(その為にジャクソンの目とブルース・グリーンウッドがもみ消す監視テープにしか真相が写ってないなどという不可思議なことが発生するわけです)、群衆が最初から重火器を持って大使館を攻撃していない理由はただ1つ観客を欺くためだけであったとしか解釈のしようがないわけです。ウイリアム・フリードキンのような人ですら最近はこういうことをするのかとちょっとガッカリしてしまった程です。
さてここで、マクロレベルでオーディエンスを操作するゲームとはどういう意味であるかを更によりクリアにする為、それが極限の形で呈示されている例をアガサ・クリスティの探偵小説「アクロイド殺人事件」と近年の映画「シックス・センス」(1999)から挙げてみたいと思います。まず前者ですが、この小説は探偵小説というものが書かれる時暗黙の前提とされるある掟を見事に破って読む者を作者のトリックに誘い込むのです。私目は、この有名或は場合によっては悪名高い小説をまだ読んでいない人は、読んだ結果が頭にこようがそのトリックに感嘆しようが是非一度は読んでほしいと思っていますのでここでそのからくりを明かすことはしませんが、まさに二度読めるというのが言葉の本来の意味において真であるような小説なのです。通常小説や映画を鑑賞する時、読者或は観客はそこに呈示されているものはフィクションであるとは分かってはいながらも、最低でもそれをリアルな出来事として受入れる或は受入れるふりをすることを前提として読む或は見ることになるのですが、この「アクロイド殺人事件」は読者側に要求されるようなそのような態度を維持する為に必要不可欠となる作者と読者間の関係を処する暗黙の掟の一つを粉々に打ち砕くことによって恐ろしいばかりのサプライズ効果を挙げるのですね。要するに、通常は裏で操る作者の意図が小説の内容面に反映されることがあってはいけないわけですが、「アクロイド殺人事件」はそれを踏み越えて或は意図的にその境界を曖昧にすることにより作者が読者を操作することをその作品のエッセンスとしており、それ故に作者が行うこのゲームを快であると感ずるか不快であると感ずるかによってこの作品の評価は大きく変ってくるわけです。この点がまさにこの小説がたとえばエラリー・クイーンのような他のミステリー作家を激怒させる要因にもなっているわけです。つまり彼らにとってはそういうゲームの存在自体があってはならないわけであり、ミステリーというジャンルがそういうゲームで侵食されるのを潔しとしないわけです。それから次に「シックス・センス」です。実は私目の場合はこの映画のからくりは開始30分で早くも分かってしまいラストシーンで驚かされということは全くなかったのですが(尤もこの映画にはトリックが含まれているということを見る前からさんざん聞かされていなかったとしたら気が付かなかったかもしれませんが)、この映画も「アクロイド殺人事件」的に二度見ることが可能な映画であると言えるでしょう(但しこの映画にはあのラストシーンを徹底するのであれば若干矛盾があると思いますが、それを説明するとネタバラシになりますのでしません)。言わば観客をストーリーレベルではなくそれとは別のマクロレベルで操作するが故にそもそも二度見るというようなことが言及可能になるわけですが、時にこれがオーディエンスの側から見ても嗜虐的な快感になるということがこの「シックス・センス」などを見ても分かるのではないかと思います。ところで、この「アクロイド殺人事件」と「シックス・センス」は極端な例なので、ここまでのトリックが「ゲーム」で行われているなどと言うつもりは毛頭ないのですが、ただ私目はフィンチャーの意図はこれらの作品と同様なところにあったのではないかなという気がします。すなわち、あらゆる意味においてこの映画はゲームに関する映画であり、それは扱っている内容もゲームであればフィンチャーの意図自体もゲームであったのではないかという意味においてです。たとえば、この映画の最初の方に、自分の父親が自分がこれから迎えようとする48才の時に飛び降り自殺(?)する場面を回想するシーンがあり、何やらそれがこの映画の重大なクルーとなるのではないかというような印象を観客に与えるのですが、実はあまりプロット的に重大な意味はないのですね。確かに最後にダグラスが高層ビルから飛び降りるシーンとオーバーラップするのかもしれませんが、これ自体何やらそういう手法のパロディにしか思えないわけであり、そもそもオーバーラップさせる必然性などどこにもないわけです。それよりもそういうシーンの背後で肩透かしを食わせてチョロッとベロを出しているフィンチャーの顔が見えるような気がしますね(よく考えて見たらフィンチャーの顔など知りませんでした)。このようにして考えてみると、この「ゲーム」という映画をその内容面において穴だらけである或はその逆に完璧であると評してしまうとすれば、それは見事にその評者までフィンチャーの仕掛けるゲームに十羽一からげに引っ掛かったことを証明しているのではないかとすら思われる程なのです。まあそういう意味においてなかなか興味深い映画にこの映画はなっているように思われます。
それから話は360度変ってしまうのですが(え!それでは元に戻ってしまう?)50年代60年代の映画が好きな人はキャロル・ベイカーがマイケル・ダグラスの家政婦役で出演していますので是非注目してみましょう(或は年取った彼女には注目しない方が昔のメモリーを保てていいかな?)。私目は最初にこの映画を見た時は、お年を召されたかつてのベビー・ドールの存在に全く気が付かなかったのですが、見直した時にようやく気がつきました。さすがに、エリア・カザンの「ベビイドール」(1956)で親指をしゃぶって挑発的なポーズを取っていた頃の面影はないのですが(尤も60も半ばを過ぎてそれがあったら気色悪いでしょうね)、この人声が豊かで幅広く声だけでは大スターかなと密かに思っている程なのですが、その特徴的な声でこの人だなと確信することが出来たわけです。不思議なもので容貌は変っても声の質は年を取ってもそれ程変わらないもので、容貌の変化と声の質の不変化のギャップが大きく何やら奇妙な印象さえあります。でもまあ懐古趣味と言われても仕方がないのですが、時々最近の映画で昔のこういう俳優さんが元気にしているところを見るのもなかなか楽しいものがありますね。

2001/02/03 by 雷小僧
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