マクリントック ★☆☆
(McLintock!)

1963 US
監督:アンドリュー・V・マクラグレン
出演:ジョン・ウエイン、モーリン・オハライヴォンヌ・デ・カルロステファニー・パワーズ


<一口プロット解説>
ジョン・ウエイン演ずる牧場主の元へ疎遠になった奥さん(モーリン・オハラ)が離婚の為に戻ってきて、ひっちゃかめっちゃかな展開になる。
<入間洋のコメント>
 「マクリントック」(1963)をタイトルとして挙げましたが、実はここではこの映画に関して述べるのが主な目的ではありません。では何故この作品を取り上げたかと言うと、このタイトルのDVDに付加されていた音声解説(海外販売のDVDには主演の一人モーリン・オハラを含めて数人による音声解説が収録されています)で、ある解説者が、この映画の主演であるジョン・ウエインを含めた当時のスターは、自分のスタイルを確立した上でそれを各出演作品で有効に活かしていたのでイメージ的に或いはこう言ってよければ直感的に把握し易かったのに対し、現代のスターはイメージが非常に捉えにくいと述べていますが、これについてコメントしたかったからです。

 勿論、これは必ずしも現代のスターには個性がないと言っているわけではなく、むしろわざわざイメージが固定化されるのを避ける為、出演作品毎にスタイルを変える傾向があるのもその1つの要因であると解説者は語っています。ジョニー・デップなどを例として挙げていましたが、確かにジョニー・デップという俳優さんを直感的にパっと捉えるのは難しいですね。個人的には最近ようやくトム・クルーズが直感的に把握出来るようになりましたが、ブラッド・ピットは出演作品毎にスタイルを変えているというわけでもなかろうに今でも把握が困難です。それは、演技だけに関してではなく声に関してもそうです。たとえばジョン・ウエインやケーリー・グラント或いは典型的にはジェームズ・スチュワートなど、名前を聞いただけで途端に声の特色が同時に思い浮かびますが、ジョニー・デップと聞いてもどんな声をしていたかすぐには思い出せません。現在活躍している俳優さんでも、ジャック・ニコルソン、マイケル・ケイン、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ、ジーン・ハックマン、ダスティン・ホフマン、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォードと60年代から活躍している俳優さんの声はすぐに思い出すことが出来ます。ところが、ブラッド・ピットがどんな声をしていたかは、聞いてみてああこんな声だったなと分かる程度であり、その映画を見終わるとすぐに彼がどんな声をいていたか忘れてしまいます。

 これはまた俳優さんだけに限った話ではなく、音楽についてもそうです。現代の映画音楽は、たとえばジェームズ・ホーナー、ジェームズ・ニュートン・ハワード等の音楽を聞いてみれば分かるように、むしろ音楽が突出するのを避ける傾向がある為、音楽自体を後から思い出すということが困難なのですね。言ってみれば極めて職人的な音楽であり、たとえばヘンリー・マンシーニやフランシス・レイの音楽が映画を離れても頭に染みついて離れないのとは好対照だと言えるでしょう。どちらの様式が良いかを問題にしているわけでは全くなく、映画における音楽自体のあり方が1970年代までとそれ以後では全く違っているということが言いたいだけであり、個人の音楽が独立したスタイルとして各映画に影響を与えることが現在では意図的に避けられていると言った方が良いでしょう。かつては、たとえばマンシーニやレイを始めとして、アルフレッド・ニューマン、ミクロス・ロージャ、マックス・スタイナー、ディミトリ・ティオムキン、エルマー・バーンスタイン、ミシェル・ルグラン、モーリス・ジャール、エンニオ・モリコーネ、ニーノ・ロータ、リズ・オルトラーニ、ジェリー・ゴールドスミスというような映画音楽の巨匠達のスタイルが、彼らの音楽が付加された作品に与える影響の度合は今日では考えられない程大きかったわけです。ミクロス・ロージャに至っては、この映画にそんな壮大な音楽を付けるのかというような場合すらあります。それに対して現在では、映画音楽作曲家のスタイルそのものが各作品に対して影響を与えることが極力避けられているのですね。すなわち、1970年代までの映画における映画音楽と、それ以後の映画音楽とでは、映画音楽と共通の項目で呼ばれても内実は全く異なっているということです。

 実は私めは、このことは更に言えば映画というジャンルだけでなくもっと広い範囲の文化事象一般に関しても同様に当て嵌まると考えています。たとえば美術を取り上げてみましょう。比較的最近読んだ本に、アーサー・C・ダントという哲学者兼美術史家の「After the End of Art」という本があります。美術を哲学的観点を含めて語った著者としては、アーウイン・パノフスキーやE.H.ゴンブリッチ(私めは、図版を多用して美術を具体的且つ哲学的に語るゴンブリッチの大ファンです)に比べればマイナーな著者ですが、現代に至る美術の流れを3段階に分け、1960年代以後の美術をend of artとして捉える彼の見方には興味深いものがあります。この本は、amazon.co.jpをアーサー・C・ダントで検索しても出てこないので未訳かもしれませんがなかなか面白い本です。政治的分野に関して同じようなことを、フランシス・フクヤマが彼のベストセラー「The End of History and the Last Man」(これは日本語訳があります)で述べていますが、要するに一言で言えばポストモダン的傾向は政治であろうが美術であろうが映画であろうが、色々な局面で金太郎飴のように出現しているということです。そのような文化の偏在性に関して僅かながらでも主題として行間から滲み出るように意図して書いたつもりであったのが「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」ですが、まあさすがに今回は初めて本を書いたこともあり個々の映画作品の紹介の範疇を大きく越えることは出来なかったというのが正直なところです。

 あれれ、またまた脱線が脱線を呼んでしまいましたが、ダントの著書についてもう少し紹介しましょう。彼は19世紀までの美術をいわゆるミメシスが基本となる美術であると捉えます。すなわち、どれだけ巧妙に自然などの現実世界にある対象を模倣することが出来るかが基本的な命題であったのが19世紀までの美術であったと位置付けます。これを彼はヴァザーリナラティブと名付けています。20世紀に入るとミメシスを基本としない、様式(スタイル)が大きなテーマとなるパラダイムが前面になり、キュビズムであるとかフォービズムであるとか色々なモダニズム的なスタイルが出現し始めます。スタイルとはある意味でメタレベルに属する概念であり、いわば描かれる対象そのものが問題であるというよりは、対象を如何に捉えるかが大きなポイントになったと言えるわけです。これを彼はグリーンバーギアンナラティブと呼んでいます(グリーンバーグとは美術史家か何かの人の名前のようですが、よく知りません)。彼はこの変化を、「ここに至ってナラティブは、表現の漸進的な最適化という意味においてではなく、アートの本質に関する哲学的表現の漸進的な最適化という意味において前進するようになった(The narative now moved forward not in terms of increasingly adequate representations, but in terms of increasingly adequate philosophical representations of the nature of art.)」と表現しています。

 しかし気を付けなければならないのは、「哲学的表現の漸進的な最適化(increasingly adequate philosophical representations)」と述べられていることです。すなわち、まだこの段階では色々なスタイルが雨後の筍のように出現したとしても、それはやがて漸進的に最適化されるだろうという前提があったということです。この前提が崩れるのが、彼が好んで例として持ち出すアンディ・ウォーホールのBrillo Boxが登場した1960年代であり(彼は1964年という年を正確に規定しています)、これ以後はスタイルそのものの優劣が問題では全くなくなり、言ってみれば何でもありの時代に突入したということです。つまり漸進的なナラティブそのものの意味がなくなったということであり、よってヒストリーとしてのアートの終焉がここにはあるということになります。1960年代はポップアートの興隆が大きな影響力を持ち始めた時代ですが、ポップアートが美術につきつけた難問とは、「もしそれらが全く同じように見えるのであれば、アートとアートでないものの差は一体どこにあるのか?(What makes the difference between an artwork and something which is not an art work if in fact they look exactly alike?)」ということでした。モダニズムからポストモダニズムへの移行、これについて彼は、「ヒストリーという重荷から解放されたアーティスト達は、各々好き勝手な目的を持って、或いは何の目的を持つこともなしに望むがままに自由にアートを製作するようになった。これがコンテンポラリアートの特徴であり、モダニズムとは異なりコンテンポラリなスタイルというものがそこに何もなかったとしても大きな驚きではない(Artists, liberated from the burden of history, were free to make art in whatever way they wished, for any porposes they wished, or for no porposes at all. That is mark of contemporary art, and small wonder, in contrast with modernism, there is no such thing as a contemporary style.)」と述べています。

 「マクリントック」を取り上げながら、それとはえらく関係のない話になってしまいましたが、ダントがモダニズムからポストモダニズムへの転換点とした1964年とほぼ同じ時期に製作されたのが「マクリントック」なのですね。この映画でかのジョン・ウエインが、なななんと!スラップスティックを演じているではありませんか。それまでの彼のイメージからするとこれはかなり異色であったと言えます。勿論1960年代に入ると「アラスカ魂」(1960)であるとか「ハタリ!」(1962)或いは「ドノバン珊瑚礁」(1963)というコメディ的なエレメントを多分に含んだ作品にも出演し始めますが、しかし「マクリントック」ではそれが極限に達します。つまり、だんだんと1つのイメージのみでは通用しない時代がやってきたとも言えます。勿論これだけでは何でもありのポストモダニズムであるとは言えませんが、確実に傾向は1960年代に入って変わってきたということを意味します。1970年代に入るとそれは決定的になり、そもそもジョン・ウエインのプレイグラウンドであった西部劇という固定的なスタイルそのものが廃れてしまうことになり、彼も刑事もの映画に出演したりして苦労するようになります。西部劇が1960年代後半から廃れてしまう原因の1つは、西部劇というジャンルがあまりにも1つのスタイルとして固定したイメージを与えすぎるようになってしまったからではないかと考えています。すなわちポストモダニズム的な時代の中でone of manyとして生き残るには、あまりにもそれまでに確立されてきたイメージが強過ぎたということではないかと考えています。

2006/11/04 by Hiroshi Iruma
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