カーテンコール ★★☆
(Noises Off)

1992 US
監督:ピーター・ボグダノビッチ
出演:マイケル・ケイン、クリストファー・リーブ、キャロル・バーネット、ジョン・リッター

上:ジョン・リッター、下:キャロル・バーネット

マイケル・ケイン、クリストファー・リーブ、キャロル・バーネット、ジョン・リッター、デンホルム・エリオット、ジュリー・ハガティというような米英の豪華メンバーを揃えて何を始めるのかと思ったら、なななななななんと!ドリフターズも真っ青になるようなドタバタコメディをやるのです。何せコンタクトをなくしたブロンドのべっぴん女優さんがパンツ一丁で舞台からずり落ちるだとか、ジョン・リッターがマイケル・ケインの尻にサボテンを突き刺すだとかいかりや長介も裸足で逃げるようなギャグを何の衒いもなく連発するのですね。しかしながらそれでは何故そんな映画をここでわざわざ取り上げるかというと、勿論単純に見ていて可笑しいということもあるのですが、「デストラップ」(1982)のレビューでも少し書いたようにこの映画には劇中劇という形式を利用して映画的コンテクストと演劇的コンテクストの相違を意図的に破壊することによってそのギャップ(すなわち本来そこにあったはずの違いをなし崩しにすることによって発生するギャップ)で笑いを誘うという実はかなり高度なテクニックが応用されているのではないかと思われるからなのです。これをもう少し詳しく説明してみましょう。演劇的空間というのは本来ならば閉じられた空間なのであってそれを見る人はその演劇的空間の規則を正しく理解して鑑賞しないとならないわけです。たとえば、役者が演じていることは全て虚構なのだから彼のすることは全て嘘八百であるなどと考えながら鑑賞していれば全てが台無しになってしまうわけです。またこれは映画的空間に関しても同様に言えることであり、映画を見る人は映画的規則を受け入れて鑑賞しなければならないわけです。ところがこの映画では閉じられた空間であるはずの演劇的空間(すなわち劇中劇の部分)を映画的空間の中に開いてしまって、見る者をどっちつかずの微妙な立場(或は両方の立場)に置くのですね。それが証拠にこの映画は舞台裏から写し出されるシーンと劇中劇の客席側から写し出されるシーンが交互します。勿論「カーテンコール」は映画であって演劇ではないのですが、少なくとも演劇として劇中劇を見ている観客というパースペクティブを映画の中にクリエートすることによって、それをこの映画を見ている観客からのパースペクティブとダブらせようとしていることは間違いないのです。勿論先程述べたようなドリフターズ的なギャグもあるのですが、まさにこの視差(パララックス:そう言えば「パララックス・ビュー」(1974)という面白い映画がありました)から発生する一種のギャップによっても笑いが発生しているのですね。たとえば、舞台裏でマイケル・ケインとジュリー・ハガティが言い合いをしているのと、劇中劇の舞台で演じられているコメディが同時進行し、ハガティが「I'm pregnant(妊娠しちゃった)」と大声で言うのと同時に、丁度舞台で演じられているコメディがクライマックスに達するシーンなどがその典型であると言えます。劇中劇を見ている観客の視点からは、ハガティが大声で「I'm pregnant」と叫ぶまでは舞台裏の二人のやり取りは全く知らないはずですが、映画を見ているものとしての我々の視点から言えば一部始終を知っていることになるわけです。この時、どちらか一方の視点だけを取ってしまうとこのシーンは大して可笑しいわけではないのですが(一部始終を知っているこの映画を見ている者としてのパースペクティブのみから見れば「妊娠しちゃった」というセリフだけが可笑しいはずはないし、また一部始終を知らない劇中劇の観客のパースペクティブから見ればコメディの舞台裏から「妊娠しちゃった」という大声が聞こえてくれば可笑しいどころか劇中劇で見ているコメディ自体が台無しになってしまうわけです)、この両方のパースペクティブを視野に収めその輻湊及びギャップから発生するズレを感得した時に始めてこのシーンは矢鱈に可笑しくなるのですね。勿論見ている我々はいちいちそんなことを考えながらああ可笑しいと笑っているわけではないのですが、無意識的にはそういう構図になっているのではないかと思われます。

それからこの映画、ハチャメチャなようでいて実はきちんと計算されているのですね。この映画においては、最初はリハーサルシーン、2度目は舞台裏からのパースペクティブ、最後は観客からのパースペクティブと劇中劇が3度繰り返され、この劇中劇というのが基本的には6人の登場人物が1階にある4つのドアと2階にある4つのドアを出たり入ったりするだけなのですが、この3度繰り返される間でタイミング的に誰がどのドアから出たり入ったりするかという整合性が基本的にはきちんと取れているのです。また一度目のリハーサルシーンが劇中劇が完全に上演された場合を示すわけですが、ただ1度を除いて6人の誰もに関しても最後に出ていったドア以外のドアから再び入ってくるというような間違いがないのです。このただ一度というのは、ジョン・リッターが2階の左から3番目のドアから出て入ったにもかかわらず、暫くすると2階の左から2番目のドアから入ってくることであり、これは意図してそうしたというよりはこの映画の編集の段階のミスなのではないかと私目は思っています。実は私目、誰がどのドアから出たり入ったりするかを記号によって一通りノートしてみたことがあるのですが(そのようにしてこの映画を見た人は世界中捜してもきっと多くはないでしょうね)、そうしてみるとこの劇中劇の中で誰かが特定のドアから入る或いは出る行為を1アクションと呼ぶとするとこの劇中劇はおよそ100のアクションから構成されているということが分かります。そのおよそ100のアクションの内ただ1アクションだけ前後の整合性が取れていないので、まあ恐らく意図的ではなく編集段階でのミスであろうと思うわけですね。またこのようにノート化してみたが故に、前述したように3度の劇中劇の相互間で整合性がきちんと取れているということが分かったわけであり、普通の見方をしていればまあ分からないでしょう。このようにして普通では分からないようなところまでも計算されているのがこの映画であり、またそうであるからこそより一層前段で述べたような無意識的な視点の輻湊による効果も大きくなると言えるのではないでしょうか。このように実に巧みなハンドリングがなされているのがこの映画であり、まあボグダノビッチ程の監督さんが、毎週末にTV放映されるドタバタコメディ程度の作品をわざわざ映画化したりはしないのですね。とは言ってはみてもドタバタギャグそのものもそれはそれで面白いのも確かであり、その点に関しても見て損はないかもしれません。


2001/06/17 by 雷小僧
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