ミス・ブロディの青春 ★★★
(The Prime of Miss Jean Brodie)

1969 UK
監督:ロナルド・ニーム
出演:マギー・スミスパメラ・フランクリン、ロバート・スティーブンス、シリア・ジョンソン


<一口プロット解説>
イギリスはエディンバラのとある女学校を舞台として、ファシズムに共感を抱く先生(マギー・スミス)とその生徒達(ブロディガールズ)とのインタラクションを描く。
<入間洋のコメント>
 ファシズムと言えば、ヨーロッパにおいてはドイツとイタリアの専売特許であったと考えられがちであるが、実はそうではなかったということがこの映画を見ているとよく分かる。この作品は、イギリス北部の長い伝統に彩られた町エディンバラが舞台になっているが、マギー・スミス演ずる主人公ミス・ブロディは、尽きることのない情熱を持ってファシズムのリーダー達を崇めるばかりか、自分の生徒達をも同じ情熱で染め上げようとする。この作品でマギー・スミスは、アカデミー主演女優賞に輝くが、彼女のパフォーマンスには何度見ても感心させられ、彼女がこの作品でオスカーを受賞したことはいかにも当然であるように思われる。また、イギリスでも最も伝統ある町の中でも実はファシズムは根付いていたことを示唆するテーマは、第二次世界大戦中やその直後であれば、決して取り上げられることはなかったはずであり、ファシズムの興隆から第二次世界大戦へと至る傷痕から、世界がようやく完治し始めたのがこの頃であったという印象を受ける。

 このように「ミス・ブロディの青春」からは単なるドラマ的妙味だけには還元出来ない歴史考証的な価値が存在するような印象を強く受けるが、それに関連して言えば、この映画の素晴らしさは、オスカーを受賞したマギー・スミスのパフォーマンスに関してのみではなく、彼女が演ずるキャラクターそのものが実に興味深い点にも存する。マギー・スミス演ずる主人公のミス・ブロディは女学校の先生だが、ロマンティックな情熱が極限まで達して、その情熱で、生徒達を教えるというよりも彼女が崇拝するムッソリーニのように生徒達を統率するようなたぐいの先生である。あるシーンでは、同僚の美術の先生(ロバート・スティーブンス)に、あなたは先生なのかそれともリーダーなのかと問い詰められる。「ペーパー・チェイス」(1973)のレビューでも触れたが、学校の先生とは生徒が自分の頭で物事が考えられるようになる為の援助をする援助者或いは仲介者であっても、決して生徒の頭を自分の考え方で染め上げるリーダーではないと考えるのが普通であり、ロバート・スティーブンス演ずる同僚も至極常識的な問いを発しているにすぎない。それに対して、彼女の方では生徒を先導することが文字通り自分の使命であると信じている。しかも彼女の情熱はあらぬ方向に撚れていて、イタリアのムッソリーニを賞賛しスペインのフランコを支援するというようにファシズムに共鳴し、ムッソリーニのスライドを見ながら感涙に咽ぶ程それにのめり込んでいるが故に事態は余計に複雑になる。たとえば、そのような彼女の情熱がとりわけあるどもりの女学生を感化した結果、その女学生は自分の兄も参戦しているスペイン市民戦争にボランティアで出征し戦死するが、あろうことか彼女は兄の敵であるフランコ側に参戦したことが判明する。また「ブロディガールズ」と呼ばれる選ばれた生徒達のみが彼女の廻りに集ってピクニックをしている様子は、表面上ののどかさとは裏腹に一人のカリスマリーダーに感化された人々が集まるファシストの集会のようでもある。何故ならば、常にリーダーはミス・ブロディその人であり、彼女が生徒達一人一人の性格付けや行動の動機付けをし、彼女達の将来の運命までも彼女が全て担っているかのように振舞う様子は、一国の運命を一人で操ろうとするファシズムのリーダー達の姿とも重なるからである。かくしてイギリスの伝統的な町エディンバラが舞台であるにもかかわらず、ファシズムに共鳴し且つ更に共鳴者を増やすことによりファシズムに可能な限りの貢献をすることが自分の使命であると考えている人物が主人公であるこの映画を見ていると、ファシズムとは対峙していたはずのイギリスのような国においてすら、少なくともある範囲ではファシズムはかなり浸透していたのではないかということが理解出来る。

 では次に、ある範囲とはどのような範囲であったかを考えてみよう。20世紀前半に何故ファシズムが隆盛を誇るようになったかに関しては、たとえば哲学的見地からはハンナ・アーレントが、深層心理学的見地からはヴィルヘルム・ライヒが、また社会学的見地からはC・ライト・ミルズがというように様々な識者達が様々な角度から分析している。それらの見解に共通して言えることの1つは、ファシズムは中産階級の心理をうまく利用し実に巧妙なやり口で彼らを巻き込むことに成功したが故に、単純に無視出来ない大きな潮流として世界を席捲することが出来たということである。勿論、中産階級に属する人々が皆積極的にファシズムを支持したということを必ずしも意味するわけではないにしても、少なくともそれを黙認したということである。この映画ではパブリックなフィギュアとしてのミス・ブロディに焦点が当てられている為、彼女が中産階級に属するか否かは判然としないが、本人が中産階級出身であるか否かは別としても、少なくともパブリックスクールの先生という地位は、くだんのどもりの女学生のような中産階級出身の生徒達に多大な影響を与えられる地位にあることを意味する。すなわち、イギリスの中産階級に属する人々の間でも、確実にファシズムの足音は鳴り響いていたということである。

 また、ファシズムとロマンティシズムの関係もこの映画を見ていると明瞭になる。ロマンティスト=ファシストという等式が成り立つと言っているわけでは無論なく、ファシズムがいかに巧妙にロマンティシズムを利用して中産階級に取り入ったかが分かるということである。ドイツファシズムとワーグナーの関係がしばしば示唆されるが、勿論何も19世紀に生きたワーグナーがファシズムを標榜していたわけでは決してなく、彼の陶酔的な音楽がファシズムに利用される萌芽を宿していたにすぎない。ハンナ・アーレントが分析するように、ファシズムには常に動き続けていなければならないという宿命があり、外面的にはそれがミリタリズムとなって現れる。語の定義上ファシズム=ミリタリズムでは必ずしもないにも関わらず結局ファシズムはミリタリズムにならざるを得ないのは、ファシズムは動き続けなければならないが故に外部に対する侵略拡張がどうしても必要になるからである。それに対して内面的な燃料を提供したのがロマンティシズムであったと言えるかもしれない。この点においてロマンティシズムは無限の燃料を供給出来る。何故ならば、ロマンティシズムは現実世界に対する束縛からは切り離されているが故に、いくらでも新たな素材を供給することが可能だからである。ミス・ブロディの情熱が留まるところを知らないのも、現実とは異なる世界を自分の周囲に形成しそれを彼女にとっての現実に変えてしまえるからであり、あまつさえその世界へと生徒達を強引に引き入れようとする。ロマンティシズムとはやや異なるが神話或いは神秘主義(ミスティシズム)にもこれと似たような側面があり、ルネ・ジラールに言わせれば本来明かされなければならないメカニズムを隠す為に語られるのが神話であるということになる。現実世界で本当に起こっていることを隠す為に別の事をいかにもそれが本質であるかの如く語り続けることを可能にするメカニズムは、立ち止まって振り返ることが自らの死を意味するファシズムにとっては格好の道具と成り得ることは論を待たないだろう。ナチスが北欧神話などの古代神話を巧妙に取り込んでいたことはよく知られたところである。

 そのようなファシズムの巧妙な戦略に対抗する為には、勿論そのようなメカニズムを喝破する人々がいなければならないことは論を待たない。そうでなければ今頃は世界も全く異なる様相を呈していたかもしれない。この映画では、ミス・ブロディが創り上げるイリュージョンを見破り打破するのがパメラ・フランクリン演ずる女子学生である。彼女はミス・ブロディとは全く逆に、極めて現実的で打算的なパーソナリティを演じている。この映画では、この二人の最終的な対決が大きなハイライトを構成するが、映画全体を通して「ミス・ブロディ神話」を徐々に見破り解体していく様子が、彼女の成長とパラレルに描かれている。すなわち、この映画はパメラ・フランクリン演ずる女学生に視点を置き換えてみると、子供であった彼女が、ミス・ブロディとの出会い、葛藤、対決を通じて大人に成長していく様子が描かれていることにもなる。「ハリー・ポッター」シリーズでは魔法学校の先生を演じてハリー・ポッター達の成長のアシスト役を務めているマギー・スミスが、「ミス・ブロディの青春」では反面教師役を演じているのが面白い。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2004/12/18 by 雷小僧
(2008/10/17 revised by Hiroshi Iruma)
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