ラブド・ワン ★★☆
(The Loved One)

1965 US
監督:トニー・リチャードソン
出演:ロバート・モース、アンジャネット・カマー、ジョナサン・ウインタース、ロッド・スタイガー
左:ロバート・モース、右:アンジャネット・カマー

トニー・リチャードソンの作品ですが、製作年代を考慮しないとなかなか理解しがたいものがあるかもしれません。というのも60年代後半に全盛期を迎えるカウンターカルチャーの予兆的傾向をこの作品には認めることができるからです。「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「カウンターカルチャー運動に影響された映画 《ボブ&キャロル&テッド&アリス》」でカウンターカルチャー的な傾向を持つ映画を何本か挙げましたが、この作品を含めても良かったかもしれませんね。ただまあこの記事を書いた時は、レンタルショップで借りて見たことが一度あるのみだったのでこの作品には全く触れなかったわけです。「ラブド・ワン」は、一種の葬儀屋が舞台となる映画であり、要するに伝統的儀式たる葬儀が茶化しの対象になっています。「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の中でも、「太ももに蝶」(1968)というピーター・セラーズ主演のカウンターカルチャー的作品の中で葬儀が茶化しの対象になっていることに言及しましたが、カウンターカルチャーすなわち対抗文化にはこのような形骸化した慣習(形骸化とは必ずしもネガティブな意味でのみ捉えるべきではなく、形骸化する必要があるが故に形骸化する場合もあるわけです)が茶化しすなわち一種の相対化の対象となることがしばしばあります。「ラブド・ワン」ではたとえば、ロバート・モース演ずる主人公が、自殺した叔父(ジョン・ギールグッド)の葬儀について葬儀屋に相談にいくと、棺桶のタイプであるとか葬儀衣装であるとかに関するブルジョワ資本主義的な宣伝をいかにもブルジョワ資本主義的なセールスマンが次から次へとまくしたてるシーンがありますが、本来葬儀とは少なくとも外見的には俗世間的な日常から超絶した聖的な領域にあるものであると考えられているのであり、わざわざその慣習を嘲笑うかのようなシーンが挿入されていることになります。勿論実際には、実の世の中であっても葬儀には少なからず費用がかかるものであり必ずしも俗世間的資本主義的な要素から免れ得るとは言い難いのも事実ですが、そのこととそのような側面を殊更強調して映画の中で描くこととは別なのですね。或いは最も神聖冒?的なシーンは、将軍たちが葬儀屋を訪れた時に、棺桶の中からドラキュラならぬおねえちゃん達が現れ将軍達が鼻の下を長くして乱痴気パーティを始めるシーンであり、言ってみればここでは葬儀だけではなく軍隊という1つの組織までもが茶化しの対象になっています。また、この映画の舞台となる葬儀屋には一種の位階級制度のようなものがあり、たとえばアンジャネット・カマー演ずる巫女さん(とはちょっと違うかな)は、初の女性embalmer(embalmとはミイラのような形態で死体保存を行う時に施す防腐措置のことを言いますが日本語で何と言うのかよく分からないのでそのまま英語で書きました)に昇格したことを喜んでいます。これはカトリック的な位階級制の茶化しのようにも見えます。他にも例は色々ありますが、いずれにしてもこの作品にはそれまでであれば考えられなかったような冒とく的要素が散りばめられています。そのような傾向を持つこの作品の中で特筆すべきことは、アンジャネット・カマーという女優さんの存在です。一種エーテル的というか幽体離脱的というか不思議なクオリティを持った女優さんであり(このタイプの女優さんはあまり多くはなく、最も典型的なのはキャロル・ケインでしょうね)、この映画のラストでくだんの葬儀屋が儲からなくなったので女郎屋のような施設に改装されることを知って絶望して自殺した彼女が、ロケットで打ち上げられて宇宙葬になるというイメージは、彼女の持つイメージにピタリであると言えるでしょう。但し彼女は他の映画ではあまり見かけないのが残念なところです。それと比較すると主人公を演ずるロバート・モースには、ややどうかなという印象もあります。そもそも純粋にアメリカ人である彼が英国人であるという設定に無理がありますね。また確かにこの作品は一種のブラックコメディであるとはいえ、典型的なアメリカ的コメディアンである彼及び同様なジョナサン・ウインタースの存在はかなり俗っぽい印象があるので、コメディとはいえ内容的にはハイブラウなところのあるこの作品の印象とはやや離れているようにも思えます。イギリス生まれのトニー・リチャードソンが監督であり、彼はそれまでは或いはその後も極めてイギリス的にハイブラウな作品を監督し続けてきたことを考えてみると余計にそのような印象を受けます。但しわざとそのような効果を狙ったのかなということも考えられ、たとえばいかにもアメリカ的なミルトン・バールと、イギリス的なマーガレット・レイトンのこれ以上ない程不釣合いな夫婦など、わざわざアンバランスな効果を狙ったかのような印象もあります。それからストーリーの本筋から見ればほとんど不必要とも言えるロッド・スタイガー演ずるジョイボーイ(アンジャネット・カマー演ずる巫女さんの上司?)の奇奇怪怪なお袋さんは、これは凄い。豚の丸焼きを鷲掴みにしてむさぼり食らう姿は、もしかすると神聖冒とく的なこの作品の中にあって最も冒とく的な存在とも言えるかもしれません。一種ラブレー的なイメージ(と言いつつも実はラブレーなど読んだことはなく、正しくはミハイル・バフチン言うところのラブレー的イメージと言うべきでしょう)と言えますが、監督のトニー・リチャードソンには前作の「トム・ジョーンズの華麗な冒険」(1963)でも食べ物のイメージの巧妙な取り込みを利用したシーンがありました。このような強烈なビジュアルイメージによるジョークは、一見するとアメリカ的スラップスティックの要素を持つように見えるかもしれませんが、実は貴族階級的な画一的文化に対するバラエティに富んだ(バフチン的に言えばポリグロットな)庶民階層文化の対抗というような要素が含まれているのであり、そもそも階級的理念がほとんど存在しないアメリカにおいては成立し得ない類の際めて旧大陸的なジョークなのですね。勿論そのようなシーンをアメリカ的スラップスティックの中で物理的に演出することは可能ですが、その場合そのような文化的な意味は全く換骨奪胎されざるを得ないでしょう。この作品の場合、ロバート・モーレーが主催しジョン・ギールグッドが所属するいかにも風通しの悪そうな英国的会員制クラブ(何しろ初めて会合に参加したロバート・モースがいきなり皿の上に突っ伏して眠りこけたのを見た会長のモーレーが「He is in need of air」とか何とか言いますが空気が必要なのはまさにこのクラブ自体なのですね)の対極的な位置にあるものとしてこのジョイボーイのお袋フィギュアが登場するのであり、そのようなコンテクストの中におかれてこそ大きな意味がそこから生産され得るわけです。ということで1960年代後半に全盛期を迎えたカウンターカルチャー運動も遠い遠い昔々のお話になってしまった現在のオーディエンスの目から見ればやや???という内容を持つ作品ですが、そのような時代潮流に先んじて製作されたこの作品には様々に興味深い点があることにも間違いはありません。しかしまあその点を理解するには恐らく何回も見直す必要があるでしょうね。


2006/11/12 by Hiroshi Iruma
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