ズール戦争 ★★★
(Zulu)

1964 UK
監督:サイ・エンドフィールド
出演:マイケル・ケイン、スタンリー・ベイカー、ジャック・ホーキンス、ウーラ・ヤコブソン

左:スタンリー・ベイカー、右:マイケル・ケイン

19世紀後半の植民地戦争という題材は、テーマとしては極めてマイナーであるとはいえ、「ズール戦争」は内容的に文句のつけようがないほど素晴らしい出来栄えです。恐らく19世紀の戦争を扱った映画の中では、最高峰の作品であると評価しても差し支えないはずです。殊に、マイケル・ケイン演ずる英国軍将校が、まるで遠くから響いてくる列車の轟きのようだと感嘆する地鳴りのようなアフリカ現地民の目に見えぬ進軍の足音(というよりも手に持った盾をたたく音)は、どてっ腹に響くド迫力があり、まさにはらわたに染み渡るパワーが感じられます。この作品こそ、是非とも映画館で見たいと思わせるのも、この作品には、単にビジュアルのみではなく、音響によるリアルな迫力があるからです。「ズール戦争」は、タイトル通り、ビクトリア朝時代のイギリスが仕掛けた数多くの植民地戦争の1つであるズールー戦争(映画の邦題は「ズール」となっていますが、辞書などを調べても「ズールー」と伸ばすのが一般的のようなので、映画のタイトルを指す場合以外は伸ばした表記とします)を背景とし、少人数の英国軍部隊が、何十倍という現地民の大軍の猛攻を受けながら、それに堪えて撃退した有名なエピソードに基いています。しかしながら、このような言い方には、1つの欺瞞があるのも確かです。というのも、このエピソードの範囲内においては、英国軍の方が、現地民の大軍に包囲されて攻め立てられていることは間違いがないとしても、大局的には恥も外聞もなく堂々と帝国主義を標榜する大英帝国の軍隊の方こそが、よその国に勝手に土足であがりこんで攻め込んでいるのは明らかだからです。その意味では、「ズール戦争」が語るエピソードには、アメリカの西部開拓史を題材にとった西部劇と似たような側面があると言えるかもしれません。砦に閉じこもった少人数の騎兵隊が、インディアンの大軍に襲撃され、苦戦の末に「残虐な未開人」を撃退する、西部劇に典型的に見出される英雄物語は、「マニフェスト・デスティニー」の標語をひっさげて西部に進出(侵攻?)した白人達の帝国主義のアリバイのようなものであるとも見なせ、「ズール戦争」で描かれるエピソードにもそれと同様な側面が見て取れるからです。局地的な側面に焦点を絞ることによって、大局的には現地民に対してジェノサイドとも呼べるような侵略戦争を仕掛けているはずの帝国主義者の方が、あたかも現地民によってミニジェノサイドを仕掛けられているかのように描くことにより、正義にまつわる論理を見事に逆転させる詭弁がこれらの英雄物語には存在するのです。このような詭弁は、最も洗練されていたであろうはずの大作家ですらどうやら抱いていたようであり、いわば当時の帝国主義的な業病のようなものであったようです。例を1つ挙げましょう。ズールー戦争ではありませんが、1857年に発生した有名なセポイの乱に関するニュースを聞いた、かのビクトリア時代を代表する小説家チャールズ・ディケンズは、Angella Burdett Couttsという人に宛てた手紙の中で、次のように書いているそうです。

「自分がインドに駐留する軍隊の指揮官であればよかったのにと思っています。そうであれば、あの東方の民族を驚きで打ちのめすために私がまず最初に行うであろうことは、おのれの残虐性の最も新しい証しである血糊がまだ乾ききらぬあの民族を、全力を挙げて根絶することを彼らに対して宣言することです。そして、慈悲深くも速やかに処刑を実行することにより、奴らを人類の歴史から消し去り、この地球上から抹殺する作業に取り掛かる宣言をすることでしょう」
(I wish I were Commander in Chief in India. The first thing I would do to strike that Oriental race with amazement...should be to proclaim to them...that I should do my utmost to exterminate the Race upon whom the stain of the late cruelties rested; and that I was...now proceeding, with...merciful swiftness of execution, to blot it out of mankind and raze it off the face of the Earth.)
※パトリック・ブラントリンガーの「Rule of Darkness」(Cornell University Press)より抜粋(原文中の...はブラントリンガーによる)

繰り返しますが、ユダヤ人に対してジェノサイドを実行しようとしているヒトラーの詭弁に満ちた演説の一部であると見なされても決しておかしくはない、このとんでもない発言を行っているのは、何と!誰あろうあの文豪チャールズ・ディケンズその人なのです。勿論、セポイの反乱により婦女子を含めた多数の英国人が殺害されたことは歴史的な事実であるとしても、それによってイギリスのインド支配を正当化することができないのは理の当然であり、ましてやジェノサイド宣言とも取れる発言をしても良いことにはならないはずです。私的な書簡であるだけにディケンズが本気でそのようなコメントを吐いたか否かについては議論の余地があるとしても、彼のこの弁にも、局地的な逆転現象を大局的な帝国主義政策のアリバイとする詭弁が見て取れることは明らかです。「ズール戦争」の国内版DVDの裏面に、「南アフリカの美しい自然を背景に描かれた「ズール戦争」は、画期的な映画であるとともに、戦争の歴史における英雄的な行動への賛歌ともなっている」と書かれていますが、表面的には確かにその通りだとしても、その裏にある文脈を見落とすならばそれは大変に危険なことです。むしろ、その通りであるからこそ、すなわち素晴らしい出来栄えの作品であるからこそ、余計に歴史的な背景を押さえておくことが重要になるのです。映画にしろ文学にしろ、芸術は芸術としてその守備範囲内だけを取り上げるのも確かに1つのあり方であるとしても、それを理由に全く歴史認識を欠くことは、大きな問題を生む原因になるというところが個人的な見解です。さて、ここまでのところは、現地民に対して持つ優越感に基づいて築かれた、イギリスを代表とする西洋の植民地支配につきまとう詭弁について述べましたが、「ズール戦争」を見ていると実はそれとは全く逆の引力も働いていることが理解できます。一言でいえば、それは「高貴な野蛮人(noble savage)」という見方です。つまり、西洋文明の方こそむしろ堕落しているのであり、未開民族の持つ生命力の方が純粋でかつ高貴であるとする考え方がこれにあたります。キリスト教の楽園喪失神話に大きな影響を受けた西欧世界では、彼らが誇る進歩史観とは裏腹に、「黄金時代の昔が懐かしい」式のヘシオドス流退歩堕落思想が巣食っているケースがしばしば見られ、「高貴な野蛮人」の考え方もその変奏曲であると見なせます。冒頭で述べた通り、「ズール戦争」で最もオーディエンスをうならせるのは、現地民のズールー族が、手にした盾をたたきながら一斉に進軍する際に発せられる躍動感に溢れた音の響きです。筋骨隆々たるズールー族のほれぼれするようなボディに比べると、対する英国軍の兵士達はまるでもやしのように見えます。英国軍の中にはフック(ジェームズ・ブース)のように仮病を使って楽をしようとするヤツすらいます(因みに、DVDの音声解説によればフックの子孫は、当作品の彼の扱いが不公平であると苦情を述べているそうです)。またラストシーンでは、ズールー族の酋長?が、猛攻に耐え抜いた英国軍の勇敢さを讃えますが、このシーンは、明らかに英国軍の勇敢さだけを示しているのではなく、ズールー族が名誉を重んずる高貴な民族であることをも同時に示しているのです。他の映画の中でも時々、このような「高貴な野蛮人」のテーマが見出されることがあり、たとえばH・ライダー・ハガードの冒険小説が原作の「キング・ソロモン」(1950)などもその1つであり、映画版ではワトゥーシ族と呼ばれていたあの背の高い高貴な未開民族は、前述のパトリック・ブラントリンガーによれば原作ではどうやらズールー族という設定のようです。また、「高貴な野蛮人」というテーマは、アメリカ開拓史に関連する文学や西部劇にも少なからず見出されます。これについては西部開拓史に関する三部作を書いたリチャード・スロットキンの著書の中で詳しく扱われていますが、それについては別の機会に述べることにします。いずれにせよ、「ズール戦争」を見ていると、帝国主義時代ビクトリア朝下のイギリス人は、未開民族に対してアンビバレントとも呼べる感情を抱いていたことが分かります。それが分かる例をもう1つ挙げてみましょう。ポーランド生まれイギリスの作家ジョセフ・コンラッドの有名な作品で、暗黒大陸アフリカを舞台とする「闇の奥」のラストでは、瀕死のクルツが、あのマーロン・ブランドも「地獄の黙示録」(1979)の中で繰り返す「The horror, The horror」という有名なセリフを吐きます。このセリフは、その意味の解釈を巡って多様な見解があるようであり、まさに世界中の英文学者にメシのタネを供給しているようですが、「Penguine Classics」版の脚注でもその例がいくつか挙げられています。ここでその全てを列挙するつもりはありせんが、その中で最も個人的にピタリと腑に落ちる解釈は、「[これは]クルツの自分の行動に対する[モラル的な]審判[であり、それ]は、より曖昧であり、自分の行動をとがめてはいるが、誘惑の色彩を帯びている。すなわち彼のささやきには、欲望と憎しみの奇妙な混合が見られる(Kurtz's judgment of his actions is more ambivalent, condemning his actions but also registering the temptation (his whisper has 'the strange commingling of desire and hate')」(訳文の[]で囲まれた部分は、前文との関連から小生が補足した部分)というものであり、クルツの「The horror, The horror」というささやきには、まさにアフリカに魅了されつつも、魅了されるがゆえにより一層それを憎むという両義的な感情が見て取れるのではないかと思われます。欲望と高貴さへの憧れは全く別のものであることは確かであるとしても、「ズール戦争」という作品を見ていると、19世紀の帝国主義においては、アフリカに対するマイナスの感情とプラスの感情があい半ばしていた点が朧気ながら理解できるような気がします。かくして、帝国主義的なナラティブに付き物の詭弁が一方では存在しながらも、躍動感、生命感に溢れたアフリカの魅力も削ぎ落とされていない点が、「ズール戦争」の1つの大きな魅力なのです。尚、バート・ランカスター、ピーター・オトゥールらが主演した「Zulu Dawn」(1979)には、「ズール戦争」の前日談(prequel)が描かれているので、そちらを先に見てから「ズール戦争」を見るのもまた一興かもしれません。


2009/03/02 by Hiroshi Iruma
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