緑の瞳 ★★☆
(Girl with Green Eyes)

1964 UK
監督:デズモンド・デイビス
出演:リタ・トゥシンハム、ピーター・フィンチ、リン・レッドグレーブ、ジュリアン・グローバー

左:リタ・トゥシンハム、右:ピーター・フィンチ

中年おじさんとうら若きギャルのロマンスといえば、日本では劇場未公開の「Hoffman」(1970)や「Breezy」(1973)などの70年代に公開された素晴らしい作品があり、また60年代前半の作品としてはここに取り上げる「緑の瞳」が挙げられます。「緑の瞳」では、中年おじさんをピーター・フィンチが、うら若きギャルをリタ・トゥシンハムが演じていますが、やはりピーター・フィンチには少々驚かされます。というのも、「Breezy」のウイリアム・ホールデンの場合には、彼であればうら若きギャルと付合っても大して不思議ではない雰囲気があり、また「Hoffman」のピーター・セラーズの場合には、黙っていさえすればむっつりスケベという雰囲気があるのでそれ程大きな違和感がないのに対し、何しろあのいぶし銀のパフォーマンスを誇るイギリス出身のピーター・フィンチが年端もいかないギャルと交際する中年おじさんの役を演じているからです。思わず「ピーター・フィンチよ、お前もか!」と思ってしまいました。しかしながら、この作品は70年代以後に製作された二作と比べて、全体的には逆コースである印象があります。と言っても何を言っているのかさっぱり分からないはずなので説明すると、「Hoffman」や「Breezy」のレビューで述べたように、これらの作品では、中年おじさんとうら若きギャルの関係が最初は年齢の違いによってすれ違いの連続であるけれども、最後は結局そのような相違があることを認識した上でハッピーエンドに終わるのと全く逆に、「緑の瞳」では不思議なことに最初は年齢の差にも関わらず互いに意気投合するけれども、やがて双方で互いの相違に気が付いて最後はバイバイになってしまうのです。ピーター・フィンチ演ずるおじさんが最初にリタ・トゥシンハム演ずる少女を気に入るのは彼女の風のようなキャラクターに対してであり、互いが互いを良く知るようになった後、風のようなキャラクターから一転して「あなたは私のものよ!」的なポゼッシブなキャラクターに変貌してしまった彼女に対して、自分が彼女を気に入っていたのは彼女の持つ風のようなキャラクターに対してであると彼が述べていることからもそのことは分かります。「緑の瞳」の二人の関係は、「Breezy」でのウイリアム・ホールデン演ずる中年おじさんが全く理解出来なかったのが、ケイ・レンツ演ずるうら若きギャルが持つ風のようなキャラクターであり、また互いのことが少しずつ分かり始めても、彼女は決して風のようなキャラクターを変えなかったのとは、全く逆なのです。思うに、これは60年代後半のカウンターカルチャー全盛期を間に挟んだ両作品の成立背景の違いに由来するかもしれません。勿論、「緑の瞳」はイギリス映画なので、アメリカ程カウンターカルチャーの影響は大きくなかったかもしれないということは付け加えておくべきでしょう。いずれにせよ、「緑の瞳」が製作された60年代前半においては、中年おじさんとヤングギャルのペアとはやはりアブノーマルだったのであり、ましてや女性が「Breezy」のケイ・レンツのようなキャラクターを持つことはほとんど考えられないことをまずは前提とした上で、いわば例外ケースのような扱いでそのようなテーマが取り上げられたが故に、ストーリーの進行に従ってアブノーマルなパターンが結局は当時のモラル背景通りノーマルパターンに落ち着いて、おじんはおじん、若者は若者という結果に落ち着いてしまったのではないかという印象を受けます。すなわち、当時のモラルがそれ以外のあり方を許さなかったのではないかということです。たとえば、フランソワーズ・サガン原作の映画「悲しみよこんにちは」(1958)が、映画として少しでも面白いとすれば、それは「悲しみよこんにちは」という作品が、当時のモラル背景の意表を突いているように見えるからであり、また同時にそれが面白くないとすれば、それが例外ケースとして意図的に提示されているのが明白である為に、わざとらしさが際立ってしまうからではないでしょうか。それに対して、カウンターカルチャー以後の作品では、そのようなモラル背景は崩れ去っているので、かつてであればアブノーマルと見なされざるを得ない関係の中に、相互理解の接点を見出そうとする動機が既に芽生えているが故に、「Breezy」や「Hoffman」はハッピーエンドで終わるのです。しかしながら、これらの作品のハッピーエンドは、雨降って地固まる式のハッピーエンドのような安易なものではありません。なぜならば、雨降って地固まるとは、荒っぽい言い方をすると、もともと理解の基盤があった上で些細なことで喧嘩(別れ)したけれども結局最後は仲直りして目出度し目出度しに落ち着くというパターンを専ら指すのに対し、「Hoffman」や「Breezy」では、必ずしも絶対的な理解の基盤が成立したわけではないけれども、互いの間には相違があることを認めた上で、またそれを相互理解した上で、すなわち矛盾を矛盾として受け入れた上で、1つの強固な関係が最後には成立する様子が描かれているからです。これら両者の理解様式の間には雲泥の差があるのです。また、このような側面があるからこそ「Hoffman」や「Breezy」に対する個人的な評価も高いのです。端的にいえば、これらの作品が製作された70年代初頭といえば、当時既に70才を遥かに越えていたルース・ゴードン演ずる婆様と、「M★A★S★H」(1970)でデビューしたばかりの20才を過ぎたばかりのバッド・コート演ずるヤングボーイのロマンスというようなゲテモノテーマを扱った「少年は虹を渡る」(1971)のような、60年代前半ではとても考えられないような作品が出現した時代でもあったのです。気が付いてみると肝心の「緑の瞳」から大きく離れてしまいましたので話を元に戻すと、そういう意味ではやはり「緑の瞳」には、最終的には60年代前半の伝統的なイギリス映画であるという印象が色濃くあります。とはいえ、やはりピーター・フィンチとリタ・トゥシンハム演ずるキャラクターには魅力があり、それはこの両者が俳優として持つ魅力とも関係します。ピーター・フィンチに関しては今更言うまでもありませんが、リタ・トゥシンハム演ずるキャラクターも殊に前半は魅力的です。彼女はとてもビューティフルであるとは言えず、またチャーミングなファニーフェースであるとすら言えませんが、エキセントリックな容貌には独特の雰囲気があります。麦畑の中をピーター・フィンチと共に軽やかに歩く前半のシーン(上掲画像参照)は「緑の瞳」のハイライトであると言っても良いでしょう。また全体的にイギリス的なシンプルさがあるのにも好印象が持てます。「ユア・アイズ・オンリー」(1981)等で悪役を演じているジュリアン・グローバーの最初期の出演作であることを最後に付け加えておきましょう。


2004/10/16 by 雷小僧
(2008/10/27 revised by Hiroshi Iruma)
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