Hoffman ★★★

1970 UK
監督:アルビン・レイコフ
出演:ピーター・セラーズ、シニアド・キューザック、ジェレミー・ブロック

左:ピーター・セラーズ、右:シニアド・キューザック

正直言えば私目は、ピーター・セラーズ主演の映画はあまり好きな方ではなく、たとえばかのピンクパンサーシリーズを見ることもあまりないのですね。1つにはセラーズのギャグとは、スラップスティックでは勿論ないのですがどちらかと言うと身体を使ってのギャグが多く、またしゃべりの内容で笑わせる場合でも、たとえばボブ・ホープのように言葉の内容自体によるおかしさではなく、むしろしゃべり方の奇抜さに依存しているような側面があるからです。しかしながらこの「Hoffman」という作品はそもそもコメディではなく、ピーター・セラーズの実に味い深い一面を見ることが出来る映画であり、そのような作品は他には「チャンス」(1979)くらいしか思い浮かばないのですが、これらの作品を見ているとセラーズはもう少しこのタイプの作品に出演していても良かったのではないかと思えてきます。さて「Hoffman」の内容ですが、一言で言えば中年おじさんとまだ子供のようなヤングギャルとのインタラクションを扱ったストーリーであり、たとえばキューブリックの「ロリータ」(1962)的な設定に近いと言えるでしょう(そう言えばセラーズは「ロリータ」にも出演していましたね)。インタラクションと書いてラブストーリーと書かなかった理由は、そもそも中年おじさんとヤングギャルとの落差があまりにも大きすぎて、確かにある意味でラブストーリーではあるのですが通常のラブストーリーとは趣きがまるで違うからなのです。その違いとは、通常のラブストーリーにおける両当事者間の理解様式には互いが互いに対して対等の関係であるという前提があるのが普通であるのに対し、中年おじさんとヤングギャルの間ではある意味で越えられない溝が存在するということがストーリー自体の前提となることから発生するのですが、前者ではテーマが一次元的な相互理解性に還元されてしまいがちなのに対し後者では相互非理解性をその本質として持つ相互理解性がメインテーマになると言えるわけです。たとえば通常のラブストーリーの途中で恋人同士が喧嘩するシーンがあったとすると、その喧嘩の元になった相互の不理解は、最後には必ず理解することによって解決されるのが普通の展開であるのに対し(そうでなければそれは最早ラブストーリーというジャンルからは逸脱するでしょう)、後者ではその不理解は解決不能であるが故にその不理解を内に含んだままでの理解がテーマとして現れるのです。「Hoffman」を見ていて非常に面白いのは、ピーター・セラーズ演ずる中年おじさんとシニアド・キューザック演ずるヤングガールの両者のインタラクションは、ほとんど滑稽な程すれ違いの連続であり、たとえ一時的に互いが互いを理解したように思える瞬間があったとしても(たとえば二人でチョップスティックを弾くシーン等)、次の瞬間にはまるで理解など出来ていなかったことが明白になるのです。そのような相互理解不能性が結局最後の最後のシーンまで続くわけですが、この映画実はハッピーエンドで終るのです。すなわち、キューザックがセラーズのところに戻ってくるのです。けれども、ハッピーエンドであるからと言ってそれまでの相互不理解が解消したわけでは決してなく、実を言えばただ1点を除いて何1つ解決されていないのです。ではその1点とは何かというと、互いの間には相互不理解があるという理解です。この映画の味わいの深さもまさにこの点にあると言えるでしょう。すなわち、相互不理解があるということを互いに理解した時点で新たな理解が生まれるということであり、実は人間同士の関係においては、それがたとえこの映画のように中年おじさんとうら若きヤングギャルとの間ではなくとも、そのような側面があるのではないでしょうか。この映画のラストシーンが得もいわれぬ味わいを持っていて見る者に安堵感を与えるとするならば、それは実は全ての不理解が解消され入り組んだパズルが解決されたからではなく、全ての不理解が解決されていないにも関わらず、不理解は常に存在するという理解の前提に立った上での理解が成立するからであり、実は現実の人間関係も理想的な状態では存在し得ないことをこの映画を見る者も無意識に知っているからではないでしょうか。尚、この映画でキュートなキュートなヤングギャルを演じているシニアド・キューザックは、名優シリル・キューザックの娘であり、そう言われてみると目元など非常に似ていますね。


2003/08/23 by 雷小僧
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